今、底にある危機


「あの橋の向こうに」(画像をクリック)
 戸梶 圭太・著 実業之日本社・刊




「女の気持ちをリアルに描いた」



と紹介されている恋愛小説は数多存在するし、多くの人に読まれているし、私も過去に何冊か手にとって読んだことはあるのだが、
実は、私はこういう触れ込みで紹介されている小説はあまり読みたくないのだ。
理由は2通りある。



1、全然リアルじゃねーよと思わされるから(8割弱)
2、なんでこんなに生々しいんだよ・・・と閉口させられるから(2割強)



「あまり読みたくない」ってのは前者にあたるものについてであって、実は後者のほうの小説は読みたいところもあるな。ちょっとウソつきました。読んで「うあー古傷がイテェ!私もそんな覚えあったわ」と思いたいものな。マゾか。
全然リアルじゃない恋愛小説ってのは、まあ、相手が病気で余命いくばくもないものだったり、ひょんな出会い(このひょんって言葉が使われているものは大体ダメだ)から始まり、片思い奮闘してハッピーエンドみたいなものだったりいろいろあるが、
「こんなドラマみてーなキレイ事やご都合主義はあるわけねえだろう」
と直感で思わされたら即刻アウトだ。
実際の恋愛ってのは楽しいこともときめきもあるが、大部分がつらい。しんどい。その当時は泣く事も何度もあるが、今思い返してみれば「なんでそんなくだらねえことで泣いたんだろう」と思わされるようなことばかりである。恥をしのんで告白すると、私は「ゲーセンに行きたくない」「ポロシャツを着て欲しくない」だのといったことで泣いたことがある。本当の馬鹿とはこういう人物のことをさす。
 私の例は極端かつ幼稚なものであるが、実際の恋愛って「あなたに会いたくて」泣くだの「ただ顔が見られただけで」幸せだのということはない。「顔が見たい」「あなたに会いたい」なんて聞くと「一途な恋が織り成す美しい行為」のようにも聞こえるが、そのために例えば、真夜中に駆けつけるという行為は次の日の仕事に差し支えるし、タクシー代だってバカにならない。
そして、何よりも相手の都合や迷惑を考えていない。
小説の世界では相手もウェルカムと受け入れてくれるかもしれないが、現実はそうでもないのだ。真夜中の訪問は「うざい」と思われストーカーよばわりされて破綻することのほうがよっぽど多いことだろう。(付き合った時期にもよりますが)
あと「会いたい」や「ただ顔が見たい」は、ずばり「セックスしたい」の言いかえであることも多いので、やっぱり美しいものではないと思うんだよな。
フィクションの世界にそのような現実的な生々しさを求めていない、という声も多いだろうが、私はそういう、目を逸らしてしまいがちな部分を書いている小説に惹かれる。
あるいはみんながキレイ事で隠蔽しているようなことを潔く書いている小説に惹かれる。
恋愛なんてセックスの導入部分だ!とか
そんなのは恋愛じゃなくて性欲だろうよ!とか
性欲を恋愛だと思ってしまうと女は別れ際、修羅になる!とか
彼氏がいる主義ゆえに別れる時の泥沼凄まじい!とか
それこそが女の気持ちをリアルに描いていると思うのだ。
最近では女性作家の描くこういうリアルな小説もたくさんあって、私も大変興味深く読ませていただいている。
男にさんざんな目に遭わされたり、使わなくていい気を使って身を滅ぼしたり、どこから湧いてくるのかわからない妙な行動力に突き動かされて余計なことをしてしまったりしている主人公の姿を見ると、かつての自分や、自分の持っていた感情が自然と投影されて、心から「いてぇ!」と思うものだ。自分のダメな部分を指摘されるのは非常に重要なことである。
しかし、どうしても同調できない部分がある。
それは筆者の「でも、彼女は必死で恋愛しているんですよ」的同情のまなざし部分である。
どんな目に遭おうと恋をしている主人公=女だけは肯定。
私も女なんでこの肯定したい気持ちはわかるのだ。全部ダメなんていったら生きていけない女は沢山居るし、恋をする部分まで否定してしまっては元も子もないというのも納得できる。何よりも筆者自身が女性ということもあって、ダメな恋愛をしている人間を他人事に思えないと思ってしまっているんだろう。
わかるんだが、ここまで過去の行いを、冷水が勢いよく流れ落ちる滝に打たれながら回想し、そこから立ち直るぞ立ち直るぞと修行しているのに、この部分はまるで、その修行後滝から上がったら、ふかふかのタオルと温かいミルクティーを出されて「ハイ、ご苦労様」と言われるようだ。そして尼さんがまるでわが身の様に「わかるわぁ、その気持ち」と言ってくれるかのようだ。どんな喩えだ。
そんな生ぬるさはいらんのである。
男の坊さんに客観的に渇!渇!と叩かれるほうがいい。「お前はダメだ!」「そんなのは恋愛じゃないぞ!肉欲だ!」と言われるほうが脱却せねばという気持ちに駆られる。あるいは滝から上がろうが無視、あるいは皮肉のひとつやふたつ言われるほうがここから這い上がらなければという気持ちになる。マゾか私は。



本日取り上げる戸梶圭太の「あの橋の向こうに」は2003年に発表されたものなんだが、
読んだのが最近なのです。今までなんで知らなかったんだ!と後悔したほどだ。
これまで読んだ中でもっとも「女の気持ちをリアルに描いた」小説です。
女の気持ちどころか、生活や、生態や、どうしようもなさや、勘違いぶりや、激安ぶりや、クズぶりや、何にもなさ加減などもリアルに描かれている。
それを戸梶圭太(言うまでもなく男)が書いているのだからまさに奇跡の一冊である。
まあ、戸梶圭太は女だけでなく人間の生々しいクズ/激安部分を書かせたら右に出るものはないんだけども。



主人公は20代後半のOL。
池袋から1時間以上離れた埼玉のとある町に住んでいて、
仕事は単純な事務だが朝から晩まであって、
同僚はオヤジと暗い女と攻撃的な女でうんざりで、
家族は私のことを何も考えてくれていない。
そして自分は太っていて
男にも相手にされないし、友達も居ない。
通勤電車は臭くてノロくて、
住んでいる町は駅前だけが整備されたけどあとは大したことなくて、
家から駅の間にある橋は巨大トラックが行き交い、自転車は歩道を走ってはいけないんだが
死にたくないので歩道を走るとじじいやばばあが鬱陶しい。



フィクションの登場人物でありながら、こんなにもどこにでもいそうな女なのである。
こうやって羅列していくとまるでノンフィクションのようだ。
ドキュメンタリーのようとも言える。スティーヴィーにも匹敵するクズぶりだ。
一言で言うと「冴えない女」である。
その冴えない女の言動や思考がこれまた冴えなくていちいち素晴らしい。
ゲロくさい満員電車で楽しいこと考えなきゃ、と思って考えつくのが
「もしも宝くじで3億円当たったらどうしよう」
だから。
私の周りにも宝くじ3億円シュミレーションを話す人がいるが、その人がどうであれ、この話題は本当にくだらないと心から思う。私は宝くじを買ったことがないのでこんなことを言う資格はないかもしれないが、当たってから考えろよ!というかそんな夢見るなよ!
あとこの主人公は「具合が悪い」依存症だ。頭痛いだの腹が痛いだの気持ち悪いだのなんだかんだ。
こういうのも身近にたくさんおりますね。こないだも電車の中で見かけました。「そんな人いない!」なんて言い張る奴が居たら吊るし上げてくれよう。
いない、と言う女はおそらく表面的な会話をしておきながらすべてスルーしているのだろう。あるいは馬なのかもしれない。



この冴えない女は、冴えない女のくせに「周りが悪い」と思っていたり、「どうしよう」と言っていながらでも何も変えるつもりはない。
文句だの「どうしよう、ヤバイよね」とは一応言うけれど、大抵流されて、なんだか意志があるような気持ちになっちゃって、でも実は全然なくて、そこでまた「どうしよう」「ヤバイよ」と一応言う。
無気力悪循環。
自分を変えなきゃという気持ち皆無。
食っていく事に関する危機はないのでこういうことになっているんだろうが、それにしても「今の状況やばい」と口では散々言うが今、自分を変えることに対しては梃子でも動かない人ってのも沢山居ます。
これも「こんな人いない」なんて言わせねえぞ。
私も「自分を変えるつもりがない」というのは身に覚えがあって、いやはや、本当にまずいなあと思う次第です。というわけで最近は変化に向けて動き出しているわけですが、この小説を読んでいたら変化しないで今の環境を保とうとする女=すなわち昔の自分がいかに愚かでださくて安い女なのかを見せ付けられているようで、本当に早く這い上がらねばと思わされました。
戸梶圭太は現状に「どうしよう」と言いながらもすぐに「でも、いいよね、周りが悪いんだから」と責任転嫁する女を叱るんでもなく同情するんでもなく「ダッセエ女!」と吐き捨てながら意地悪く見ているだけなのだ。
見られているという行為は本当に堪える。なんとかせねばと思う。
そして、「私はこの主人公とは違う女にならねば」と心から思わされる。
(もっとも、本当に激安な人間って「私はこんなに酷くない」「私はこの人と違う」とか都合いい自己解釈してしまうんだけどな。激しく立ち位置の間違っている女。そういうのに限って小説以上に酷いんだけど。救い様がないんだけど)
何度も書くが、それくらいこの女の激安ぶりはどこまでいっても凄まじい。
しかし、すべてが「ありえねー!」ではないのだ。ありえる/すでに起こっている/経験あることなのだ。
肉欲と恋愛が混同するのは誰にでも起こる現象だし(混同したままの人間のほうが多いくらいだ)、女だってオナニーはする。どうしようもない妄想を膨らますこともある。程度の低いスリルを味わうこともあるし、どうしようもない人だかりの中の人間になってしまうことだってあるだろう。
上記のようなことを戸梶圭太は、前述の「ダッセエ女!ケケッ」という視点で書いてあるので、汚いことと安いことと醜いこととグロいことまみれだ。顔を背けたくなるような描写も数多くある。
しかもそれが全編を通して勢いだけでテンポよく書かれているからすごい。
そして戸梶圭太がよく多用する、意地悪く強調したい部分が大文字/太文字になっているネットの文章のような文体も痛快だ。





ちなみにweb上にアップされている本書の感想文を見ていたら
「卑猥な言葉満載」
「性愛描写がグロテスクなほどすごいので、電車の中で読んでいて途中でページを閉じてしまった」
と書いている人が多かったです。
主人公に感情移入できないだの恋愛小説じゃないだの、女性をバカにしています!などという意見もよく見かけたな。
こういうことを言える人間てのは、激安人間は目に見えないんだろう。戸梶圭太の小説も読まないんだろう。
戸梶圭太はものすごく多作なのに、賞的なものと一切無縁なのが、激安人間を意識の中からシャットアウトの構造と似ているような気がする。いや、一切無縁なところがまたたまらんのだが。
自分の世界から伸びている橋の向こう側は、まさにその激安人間の世界だというのに。地続きだというのに。
自分の中にもある部分だというのに。



それにしても激安人間を自分と切り離している人ってのは、自分の中の激安部分はどうしてるんだろう。
なかったことにしてんのかな。
その、「自分は違う/そんな部分はない」という発想がすでに激安人間の始まりなんだけどな。