恋もする成長もする大地康雄



「恋するトマト」(画像をクリック)
  東京 銀座シネパトス、K'sシネマにて公開中
  茨城 各映画館にて公開中
  その後全国順次公開予定




「恋するトマト」というタイトルから、なんとなく石坂啓のマンガを想像していたのだが(それは「夢見るトマト」だった)今作はそんな甘ったるいものではありませんでした。
主演が大地康雄ですから。
その時点でラブコメでもなんでもありません。
そして今作のテーマは
「日本の農業における深刻な嫁不足」
なのです。
ひゃー。石坂啓なんて名前出してすいませんでした!と全力で謝りたくなるテーマだ。



大地康雄で農業で嫁不足、ときくとなんとも堅苦しいものを想像してしまいがちだが、
ところがどっこい、これがすこぶる面白い。
あまりにも嫁が来ないのでフィリピーナに無理やり結婚してくれと頼み、フィリピンに渡るという波乱万丈のストーリー展開もさることながら、大地康雄がとにかくコスプレ七変化をする。
基本は言うまでもなく農夫であるのだが、
嫁候補を呼ぶために催される「ふるさと交流会」の場では女装をするし、
フィリピンに渡って絶望のどん底に立たされた際にはホームレスにもなるし、
かと思えば金ピカの腕時計をはめて「じゃぱゆき」さんを送り込む人身売買ブローカーにもなる。
茨城弁を流暢に喋っているかと思えば、フィリピンでは英語を流暢に操るようにもなるし、45歳のオッサンなのに若い男のようにとまどったりもするのである。
特にホームレス姿は絶品。山谷や隅田川沿岸にいても遜色ない。
こんなにもホームレスになりきることができる俳優は大地康雄以外いないんではなかろうか。
さらに言うと、キスシーンまであったりするのです。
もはやこれは、大地康雄による市原悦子ドラマのようだ。市原悦子もはるかに凌いでいるけれど。やっぱり和製ジャック・ニコルソン



と、書くとなんだよ堅苦しいどころかイロモノ映画じゃねえかよ、と思ってしまうかもしれないが、これはイロモノ映画でもない。
今現在のもっとも大きな問題である「大人以降の親離れ→ひとり立ち」に真正面から立ち向かった力強い作品なのである。
「先祖代々受け継がれてきたもの(この映画の場合は畑)を絶やしてはいけない」
という観念は時代が進み、昔と状況が変わってきた今でも残っている意識で
ことに農家という絶対保守な家に生まれた子供(とくに長男)はこれを守らなければならない傾向にある。
しかし現実には、頭ごなしに言われたことを守ってきた子供ってのはいつまでたっても子供なわけで、いくら畑が相続されようと、いくら農業でがんばろうと中身がないのである。
もちろん農業は尊い仕事ではあるのだが。


「俺は農業しかしらねえ男だから・・・」


とこの映画内でも大地康雄が遠慮がちに告げるシーンがあるが、それはとんでもなくマイナスなことなのだ。結局親や先祖の庇護から出ていない。なぜ自分が農業に従事するのか、の意味を掴んでいない。
とても残酷なことだが、そういう人間(農業に限らず自分がやってることに自分で意味がわかっていない人間)というのはどんなに働いていようと、どんなに偉いことをやっていようと、どんなに優秀であろうと、他人の目には
「薄っぺら」
に見えるのである。魅力ゼロ。
これを和らげるために「素朴な人ね」というような言葉があるわけだが、素朴なんてほめ言葉じゃないのだ実は。「あなたって何にもない人なのね」ということの言い換えなんである。



そういった意味ではこの映画における大地康雄扮する主人公・正男は聞き分けのいい、親思いな45歳であるが、自分の足で世界に飛び出していない、中身のない子供同然なのだ。



その親の庇護の元にいる子供が、簡単に結婚などできるわけがない。
昔はできたのかもしれないが、それはあくまで昔の話である。そして農業はつらいことが多いが、それはあくまでも農業内におけるつらさでしかない。どの仕事にもその仕事なりのつらさがあるのである。これは何も特別なことではない。
だから正男は、フィリピンに渡ってそこで遭遇した出来事から生きていくことのつらさを知るのである。正男の世界は、フィリピンに渡った時点から動き出したのだ。
フィリピンで遭遇する数々の出来事、人、そして経験。どんなに酷い、自分が好かない人間と知り合っても、それは決して無駄なことではない。自分の世界を模索するとはいやなものにも触れることである。



故郷を、親元を遠く離れた異国の地で正男が思う
「人間は、太陽と水と土さえあれば生きていける」
という実感。
これは茨城にいた頃も口にしていたが、フィリピンで発されるこの言葉は重みが全然違う。太陽も、水も、土も、人間がどうなろうとずっとそこにあるのだ。
必要なのはその大地に自分の足で立つということ。
太陽の日差しを自分の体で浴びるということ。
そして、水を自分の手で触れて、汲み上げるということである。
これを知ることができたのは、両親の、先祖代々の「農家の血」なんだろう。畑は守らなければならないという意識なんだろう。親元で農家をやっていたことが土台となってるんだろう。



作物が豊かに実るのは、人間が丁寧に手入れをしてあげるからだけではない。大雨が降ろうと、風が吹こうと、倒れない生命力があるからだ。自然にさらされて初めて強靭に育つのである。
映画内で正男は、フィリピンでは作られていないトマトを作ろうと奮闘する(フィリピンではプチトマトしかとれないらしい)のだが、このトマトも作るまでは土を作ったり、肥料を作ったりと手をかけるのだけれど、スコールの多い気候のフィリピンでは日本のようにうまくは育たない。
それでも豊かに実るトマトは、正男そのものだ。
どんな状況だろうと、どんな年齢だろうと育つものは育つんである。
育とうと心に決めれば。



人の成長ってのは若い人間だけに起こることではないし、ひとり立ちも若い人間だけの通過儀礼ではない。モノを作るってのはおしゃれなもんだけではないし、物語は、映画は、顔形のいい男女だけのもんではない。
そういうすべてがぎっしり詰まった傑作であります。
ここでは書ききれなかったが、日本とアジアの在り方も見所。
何はともあれ大地康雄に拍手。
そして相手役の女性、アリス・ディクソンが美しいのが素晴らしい。
井川遥のようで、伊東美咲のようで、イ・ヨンエのようで、その誰でもない不思議な魅力がある美人なのです。もっと見たい人であるよ。




余談ですが私がタイ行った時は、タイのねーちゃん買ってるおっさんってすべてジェーエー、すなわち○協の人だったけどな。