恋もする成長もする大地康雄



「恋するトマト」(画像をクリック)
  東京 銀座シネパトス、K'sシネマにて公開中
  茨城 各映画館にて公開中
  その後全国順次公開予定




「恋するトマト」というタイトルから、なんとなく石坂啓のマンガを想像していたのだが(それは「夢見るトマト」だった)今作はそんな甘ったるいものではありませんでした。
主演が大地康雄ですから。
その時点でラブコメでもなんでもありません。
そして今作のテーマは
「日本の農業における深刻な嫁不足」
なのです。
ひゃー。石坂啓なんて名前出してすいませんでした!と全力で謝りたくなるテーマだ。



大地康雄で農業で嫁不足、ときくとなんとも堅苦しいものを想像してしまいがちだが、
ところがどっこい、これがすこぶる面白い。
あまりにも嫁が来ないのでフィリピーナに無理やり結婚してくれと頼み、フィリピンに渡るという波乱万丈のストーリー展開もさることながら、大地康雄がとにかくコスプレ七変化をする。
基本は言うまでもなく農夫であるのだが、
嫁候補を呼ぶために催される「ふるさと交流会」の場では女装をするし、
フィリピンに渡って絶望のどん底に立たされた際にはホームレスにもなるし、
かと思えば金ピカの腕時計をはめて「じゃぱゆき」さんを送り込む人身売買ブローカーにもなる。
茨城弁を流暢に喋っているかと思えば、フィリピンでは英語を流暢に操るようにもなるし、45歳のオッサンなのに若い男のようにとまどったりもするのである。
特にホームレス姿は絶品。山谷や隅田川沿岸にいても遜色ない。
こんなにもホームレスになりきることができる俳優は大地康雄以外いないんではなかろうか。
さらに言うと、キスシーンまであったりするのです。
もはやこれは、大地康雄による市原悦子ドラマのようだ。市原悦子もはるかに凌いでいるけれど。やっぱり和製ジャック・ニコルソン



と、書くとなんだよ堅苦しいどころかイロモノ映画じゃねえかよ、と思ってしまうかもしれないが、これはイロモノ映画でもない。
今現在のもっとも大きな問題である「大人以降の親離れ→ひとり立ち」に真正面から立ち向かった力強い作品なのである。
「先祖代々受け継がれてきたもの(この映画の場合は畑)を絶やしてはいけない」
という観念は時代が進み、昔と状況が変わってきた今でも残っている意識で
ことに農家という絶対保守な家に生まれた子供(とくに長男)はこれを守らなければならない傾向にある。
しかし現実には、頭ごなしに言われたことを守ってきた子供ってのはいつまでたっても子供なわけで、いくら畑が相続されようと、いくら農業でがんばろうと中身がないのである。
もちろん農業は尊い仕事ではあるのだが。


「俺は農業しかしらねえ男だから・・・」


とこの映画内でも大地康雄が遠慮がちに告げるシーンがあるが、それはとんでもなくマイナスなことなのだ。結局親や先祖の庇護から出ていない。なぜ自分が農業に従事するのか、の意味を掴んでいない。
とても残酷なことだが、そういう人間(農業に限らず自分がやってることに自分で意味がわかっていない人間)というのはどんなに働いていようと、どんなに偉いことをやっていようと、どんなに優秀であろうと、他人の目には
「薄っぺら」
に見えるのである。魅力ゼロ。
これを和らげるために「素朴な人ね」というような言葉があるわけだが、素朴なんてほめ言葉じゃないのだ実は。「あなたって何にもない人なのね」ということの言い換えなんである。



そういった意味ではこの映画における大地康雄扮する主人公・正男は聞き分けのいい、親思いな45歳であるが、自分の足で世界に飛び出していない、中身のない子供同然なのだ。



その親の庇護の元にいる子供が、簡単に結婚などできるわけがない。
昔はできたのかもしれないが、それはあくまで昔の話である。そして農業はつらいことが多いが、それはあくまでも農業内におけるつらさでしかない。どの仕事にもその仕事なりのつらさがあるのである。これは何も特別なことではない。
だから正男は、フィリピンに渡ってそこで遭遇した出来事から生きていくことのつらさを知るのである。正男の世界は、フィリピンに渡った時点から動き出したのだ。
フィリピンで遭遇する数々の出来事、人、そして経験。どんなに酷い、自分が好かない人間と知り合っても、それは決して無駄なことではない。自分の世界を模索するとはいやなものにも触れることである。



故郷を、親元を遠く離れた異国の地で正男が思う
「人間は、太陽と水と土さえあれば生きていける」
という実感。
これは茨城にいた頃も口にしていたが、フィリピンで発されるこの言葉は重みが全然違う。太陽も、水も、土も、人間がどうなろうとずっとそこにあるのだ。
必要なのはその大地に自分の足で立つということ。
太陽の日差しを自分の体で浴びるということ。
そして、水を自分の手で触れて、汲み上げるということである。
これを知ることができたのは、両親の、先祖代々の「農家の血」なんだろう。畑は守らなければならないという意識なんだろう。親元で農家をやっていたことが土台となってるんだろう。



作物が豊かに実るのは、人間が丁寧に手入れをしてあげるからだけではない。大雨が降ろうと、風が吹こうと、倒れない生命力があるからだ。自然にさらされて初めて強靭に育つのである。
映画内で正男は、フィリピンでは作られていないトマトを作ろうと奮闘する(フィリピンではプチトマトしかとれないらしい)のだが、このトマトも作るまでは土を作ったり、肥料を作ったりと手をかけるのだけれど、スコールの多い気候のフィリピンでは日本のようにうまくは育たない。
それでも豊かに実るトマトは、正男そのものだ。
どんな状況だろうと、どんな年齢だろうと育つものは育つんである。
育とうと心に決めれば。



人の成長ってのは若い人間だけに起こることではないし、ひとり立ちも若い人間だけの通過儀礼ではない。モノを作るってのはおしゃれなもんだけではないし、物語は、映画は、顔形のいい男女だけのもんではない。
そういうすべてがぎっしり詰まった傑作であります。
ここでは書ききれなかったが、日本とアジアの在り方も見所。
何はともあれ大地康雄に拍手。
そして相手役の女性、アリス・ディクソンが美しいのが素晴らしい。
井川遥のようで、伊東美咲のようで、イ・ヨンエのようで、その誰でもない不思議な魅力がある美人なのです。もっと見たい人であるよ。




余談ですが私がタイ行った時は、タイのねーちゃん買ってるおっさんってすべてジェーエー、すなわち○協の人だったけどな。

キモ仮面おったまげ国家アタック


Vフォー・ヴェンデッタ」(画像をクリック)

全国にて公開中



先週は都合により休ませていただきました。
申し訳ございません。



このブログでは単館系映画を取り上げる率が高いので、ハリウッド映画嫌いなのかと思われがちですがそんなこたぁないのです。
ハリウッド映画だろうがなんだろうがおもしろいもんはおもしろい。
とりわけ私は、アメコミ原作の映画が好きなのです。といってもアメコミに対する思い入れはまったくありません。読んだことも殆どない。でも不思議なもんで、あ!これおもしれえ!と思ったハリウッド映画はアメコミ原作ものが多いのだよな。
スパイダーマンは勿論のこと、(映画では)あんまり評判のよくない「X−MEN」も「デアデビル」も好きであります。
でもね、もっとも好きなアメコミ原作映画は「ブレイド」なんです。
「シンシティ」とか気の利いたこと言えなくてごめん。
でもブレイドはかっこいいのだ。
刀と空手で闘う黒人(ハーフヴァンパイア)というだけでたまらんのだ。
あ、よく考えたらマーヴェリックのマンガばかりだな。「ファンタスティック・フォー」は未見だが見たらはまるんであろう。



しかしながら今回取り上げるのはDCコミックスの「Vフォー・ヴェンデッタ」であります。ってマーヴェリックとDCの違いは「ジャンプとマガジンの違いくらいだろう」くらいにしか思っていないんだが。
マトリックス」でおなじみのウォシャウスキー兄弟が脚本を書いた、とか、ナタリー・ポートマンが坊主頭になって熱演、だとかは話題になっているが、
この映画の何が一番いいかというと、主人公であるVがとてつもなくかっこいいのである。

グギャー!
なんとかっこいい佇まい!
このお面は「ガイ・フォークス」というもので、もっと見やすい写真が以下のもの。

どこからともなく「キモーイ」という声が聞こえてきそうだ。
ガイ・フォークス」というのは17世紀のイギリスに実在したカソリック教徒で、プロテスタントである国からの度重なる弾圧に耐えかねた末、国会議事堂を爆破しようとしたんだが捕まって死刑になったそうで、それ以来イギリスでは毎年11月5日は「ガイ・フォークス・デイ」とし、ガイ・フォークスの人形を燃やし、花火を打ち上げて国家が転覆されなくてよかったよかったと祝うらしい。(イギリスでは花火は禁止されている)


それを踏まえたうえでストーリーを軽く説明
近未来の世界では第三次世界大戦が起こり、世界は混乱を極めている。アメリカは内戦が今も続き、国としての機能が殆ど損なわれている状態であるが、イギリスは独裁国家となっているが故に混乱は起こっていない。
国は街中に監視カメラを設置し、家庭での会話を盗聴し、ニュース番組は情報操作を行うことで常に国民を管理している。美術品、音楽、娯楽番組などはすべて禁止という徹底管理社会。
国民もまた、そのような国家に従順に従っているのだった。少しでも国に懐疑的な発言をすればすぐに秘密警察によって逮捕され、刑務所あるいは強制収容所に送り込まれるという、まるでナチスドイツなんである。
特にマイノリティと呼ばれる人種(活動家や左翼者や異教徒、同性愛者など)は見つかれば即処刑。
そんな恐ろしい国家に単独で立ち向かっていくテロリスト兼アナーキストが、この気味の悪い仮面の男、Vなのだ。



Vは裁判所を爆破したり暗殺したりいろいろとテロリストなことをやらかしてくれるんだけど、基本的に武器が
・腰に何本も刺してあるナイフ
・インチキ空手
なのがとにかくかっこいい。
部屋で鎧の人形に向かってフェンシングの練習をしたりもするんだが、それでも使う武器は短いナイフとインチキ空手って!いいなあこのB級ぶり。
ストーリーを見るとかっこいいテロリストのようにも思われるが、テロリストがかっこいいわけがない。スーパーヒーローなわけがない。
そもそも仮面が気持ち悪い。
「なんだその卑怯な手は」と思うようなこともやってしまう。
そして不死身の完全無欠の人間外生物ではなく生身の人間なのだ。
そういう、かっこよくないところがかっこいいんである。(早川義夫の反対ですね)



ちなみに本編は2時間以上あるのだが、Vの素顔は一度も出てこない。常に仮面かぶりっぱなし。それなのに人間的な感情がありありと見えるのは、ヒューゴ・ウィービングの役者としての力量だろう。ちなみに「マトリックス」でエージェントスミスやってた人なのですがね。



そのVに触発されて自分の意志で立ち上がっていくようになるイヴィーを演じたナタリー・ポートマンもまた素晴らしいです。坊主頭になったら凛々しくなっていた。凛とした美しさとはああいうことを言うのだろう。
Vとイヴィーの触れ合いは切ない。禁止された音楽をかけて踊るシーンは泣けました。



というようにB級映画として愛でたくなる要素が満載の映画なんだが、「目の前にある現実を鵜呑みにするな」とか「国家に従順になるな、自分でいろいろ考えろ」などということも伝わってくる映画でもあります。
イギリスに限らず、アメリカも、この日本も、国家だけが強くなっていく一方で個人の権限や自由などはどんどん制限されていくという現実。テロは正しいことではない。しかし、今、現実に起こっていることを「他人事」「どっか他所で起こっていること」と思っちゃいないか?
この世に関係ないことなんてなんもない。
自分で物事を考えさえすれば、自分の中にも「V」がいるということ、あるいは自分もガイ・フォークスのお面をかぶることがあるということに気づけるはず。




原作のコミックでは映画よりもさらに「アナーキズム」「国家に黙って従ってるんじゃねえよ」という意志が強いらしいので、どうにか読みたいんだが、都内の本屋4,5軒回ったのに見つからんかったです。
心底読みてぇ!
国家によって手に入らないように操作されてたらやだな。そんな国家転覆してやる。

オブリガード流れ星ジンガ

「GiNGA」(画像をクリック)

東京 Q−AXシネマにて公開中
京都 京都みなみ会館 初夏公開予定
沖縄 桜坂劇場 6/17より公開
熊本 Denkikan 初夏公開予定
岐阜 シネマジャングル 初夏公開予定


私の家の近くには弁当工場がある。
皆さんもよくご存知のとあるコンビニの弁当を作っては出荷している。そこの労働者は、詳しくは知らないが外国人労働者が大半を占めていて、これも詳しくはわからないのだがどうやら南米系の人が多いらしい。
工場の前に差し掛かると、労働者の方々とすれ違うことがあるのだが、彼らの話している言葉がスペイン語/ポルトガル語のどちらかだったから。



ちなみに当方、大学時代はスペイン語を履修しておりました。第二外国語なんてのは通常1,2年で終わるもんなんだが、勉学を中途半端にしていたもんで、3年間みっちりだったのですスペイン語。3年時なんか毎週水曜日は4時間弱受け続けていたもんだ。その割には殆ど喋れないのだが。



スペイン語を履修していた19,20の頃に、唐突にボサノヴァ/MPBにはまり、ポルトガル語にも手を伸ばそうとしたもんだった。「ヂィサフィナード」の歌詞を全部覚えたりしておりましたよ。ま、歌詞覚えるも何も歌がどうしようもなく下手で本当の「ヂィサフィナード」(音痴、の意)になっていたけれども。
私がもっぱら聴いていたのはガル・コスタとナラ・レオン、エリス・レジーナジョイスそいからジルベルト・ジルあたりだった。
意識的に聴いていたわけではないんだが、60年代末からブラジルに樹立された軍事政権により、音楽をやることが弾圧され、それでも音楽を続けたいがためにヨーロッパの各国に亡命せざるをえなかった人たちの音楽にばかり惹かれていた。
私がMPBにはまった当時、ちょうど「セントラル・ステーション」という映画を見たり、ブラジル人格闘家台頭に驚嘆していたり(レナート・ババルやアローナが好きだった)したので本当に心からポルトガル語が話したかったのだ。
そんなわけで、工場に勤めるブラジルの方々とすれ違う度に「どうにかしてポルトガル語を習いたい」と思っていたものだ。今考えると、実際に実行していたら「語学教えれ通り魔」だ。



工場勤めのブラジル人の方々が、一番輝いていたのは2002年の梅雨頃である。
その頃はブラジル熱も冷めつつあったのだが、私が熱を上げようが下げようがそんなことは関係なく彼らは働いていた。当たり前である。
しかし、この時期の工場に行く道すがらに出会うブラジル人たちは賑やかだった。
皆、サッカーのブラジル代表ユニフォームを着て、道端でも大騒ぎなのである。
そう、2002年の6月はワールドカップが日本で開催されていたのだ。
駅から工場までの10分ぐらいの道のりの途中で何度も見かけた、サンバのステップで歩いて早口にまくしたてているブラジル人のおじさんやおばさん、そして私とあまり歳が変わらないであろう若者たちの姿は微笑ましかった。ブラジルが勝ち進み、ついには優勝したのが本当に嬉しかったのだろう。
道端でサンバを踊りだす彼らの足さばきと腰さばきは見事だった。
私はサッカーには興味がない(高校サッカーは除く)が、彼らの姿を見ていて心底うらやましかった。もっとも、会社の同期のおかげでワールドカップ自体は楽しく観戦することができたんだが、六本木や会場やスポーツカフェではなく、こんな東京の東のはずれでもこんなにも軽快に踊る彼らの根っこをぶっとく束ねている何かが、ずっと眩しかった。
おそらくこのような光景は、この時期、日本中のあちこちで見ることができたんだろう。愛知とか、群馬とか、栃木とか、広島とか、その他大勢の地域で。




先日見た「GINGA(ジンガ)」という映画はブラジルサッカーをテーマに、ブラジルの10人の若者の姿を追ったドキュメンタリーである。
サッカーそのものにはあまり興味がないというのは先ほど述べたばかりだが、この映画を知った時、工場で働くブラジル人の方々の、あのワールドカップ優勝の日のサンバのステップを思い出した。
同時期に「ゴール」というサッカー映画が公開されるのも知っていて、そちらはお涙頂戴映画、というか「もうひとつのJリーグ」や「俺たちのオーレ」を連想してしまって絶対見ねぇと思っていたから、この映画もそのようなものだったらどうしようと危惧していたんだが、ドキュメンタリーなんでまあ、見ても損はないだろうと思ったわけである。



実際に見てみて、本当によかったと思う。



この映画は、サッカーをやっている若者だけを10人追っているのではなく、フットサルをやる人、そしてフットバレーをやっている人やカポエラをやっている人もいる。
住んでいるところもリオデジャネイロもいればサンパウロもいるし、同じリオやサンパウロでもファヴェーラ(スラム街)で暮らす者もいれば、高級マンションで暮らす者もいる。
また、リオやサンパウロ、サントス、サルバドールなどの大西洋沿岸の都市ばかりでなく、アマゾンの奥深くにあるパリカトゥーバでサッカーに興じる者もいる。
男性だけでなく女性もいるし、足がない者もいる。そしてプロで羽ばたく者(ロビーニョファルカン)もいればプロを目指してテストを受け続ける者だっている。
人種だってさまざまだ。黒人もいれば白人もいるし、日系人もいるのだから。
そんなさまざまな彼らが、皆ジンガを持っていて、それに基づいてサッカー(フットバレーやカポエラもいるけど)をしている姿がテンポよく繋がれていて、見ていて飽きることがない。



みんな全然違うけど、この上なくブラジル人なんだよな。
全然違うのに、根底に繋がるブラジルターヂ、そしてジンガがありありと見える。



しょっぱな、サンバの映像や街角で踊る人々、そしてサッカーやフットバレー(手を使わないバレーボール)の映像が入り乱れ、「ブラジル人は誰もがジンガを持っている」という文字とナレーションが飛び交うのだが、それを見た時に膝を打つ思いに駆られた。



そうなんだよ、工場勤めの人たちの街角サンバも、ジンガの賜物なんだよな!



ちなみに「ジンガ」とは
もともと、カポエラ(ブラジルの格闘技)の技だそうで、
「揺れるような動きとリズム、表現力を伴ったステップ」
のことらしい。
カポエラはもともと、ブラジルが奴隷制だった頃、手錠で手の自由を奪われたアフリカの奴隷たちが手を使わないで身を護るために編み出した護身術なんだそうだ。もっとも、カポエラには勝敗がないんで、護身術というよりは抑圧された中でのアフリカ系奴隷の自由への身体的表現という要素が強いらしい。



今は「ジンガ」という言葉は、カポエラの技を離れて、サッカーでいえば足腰を使ってリズミカルに行われるフェイント、そして一般的には
「人間がもっている楽しみを追求する本能のこと、言葉を使わないで相手とコミュニケーションをとる魅力的な動き」
だそうで、私にとってはあの工場の人たちの街角サンバだが、一番わかりやすい例だとテレビで時たま繰り広げられるマルシアの踊りだろうか。



この映画の若者たち、うちの近くの工場の人たち、マルシア、プライドのリングを賑わせているブラジル人格闘家たち、そしてMPBやボサノヴァの音楽家たちを見ているとジンガというのは軽快なあの、踊るような動きのことだけではないということもよくわかる。



どんな状況下でも、絶望せずに、今を生き抜くという意志。
明日どうなるかわからない状況であっても、こんなにも楽しく生きることができるということ。
何もなくたって、何かが足りなくたって、今あるすべてのことでやりきっていこうという精神的な強さ。
今を生きられれば、きっとそのうちいいことがあるさ、という希望。
ジンガってのは人生哲学なんだろうな。



本編を彩るスピーディな映像もさることながら、大音量で流れる音楽が素晴らしい。
ひとりひとりの若者によってクローズアップされる音楽も違うので、サンバだけでなく、ロック、ボサノヴァ、ヒップホップ、レゲエ、ファンクとさまざまなブラジル産の音楽がてんこ盛り。ファンクは、ブラジル的味付けをされたものだなーと思っていたら「ファンキ」というまた違うものらしい。
カポエラの伝統的音楽もあるし、普段あまり聴くことのできないアマゾン奥地の伝統的ダンスミュージック「フォホー」も流れる。
それらが惜しまれることなく大音量で流れるから、映画の最中ずっと体を揺らしっぱなしでありました。
その音楽に乗って実際に踊ったり、踊るようにサッカーやカポエラに興じる彼らの姿がまた小気味いいんだ。見ているだけで彼らのジンガが乗り移ってくるようだ。




大音量に乗せてサッカーする姿も普段の生活の姿も、すべてが小気味いい映画でした。
映像そのものもとても雑多なようで、自然でスマート。
ああ、なんかこんな映像見たことあるな、と思い、思い出してみると「ナイキ」のCMと「シティ・オブ・ゴッド」という映画だった。
それもそのはず、本編はナイキが100%出資した映画で、プロデューサーは「シティ・オブ・ゴッド」の監督でした。ただし監督は3人の若手監督らしい。彼らのジンガもカメラ越しに伝わってきた。
これはいい。本当にいい映画だった。
私なんかパンフレットだけでなくサントラもTシャツも買ってしまったよ。
やっぱりポルトガル語習いたいなあ。工場の方々にアタックするかなあ。

名前はいらねえけど、ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン


「“恋愛”できないカラダ 名前のない女たち3」(画像をクリック)
 中村 淳彦・著 宝島社・刊



ここ2週ばかり火曜更新を守っていなくてごめんなさい。
来週こそは持ち直すぞ。



はてなで書き始めて早いもので4ヶ月になります。
最初ははてなダイアリーの形式に慣れなくて苦労しました。今も「より読みやすい工夫」を試行錯誤中であります。はてなダイアリーは自然改行をしてくれるし、ほかの日記/ブログに比べて行間が開いているので読みやすいブログではあるんだが、私の文章ってのはとにかく長いんで


「開いた途端に『うっ』と思う」

「読む気なくす」


とよく言われているのです。
何とかして読みやすくしたい今日この頃。もっとも、そんなこと言う奴は別に読まんでいいよ、と言いたくもなるがね。



そんな読みやすさの追求もさることながら、はてなダイアリーにはプロフィール欄があります。
私は昔から自分のプロフィールを書くのがどうにも苦手なのです。


なぜならば「自分には肩書きがない」から。


自分はごくありふれた労働者で、他人に一言でアピールできるような個性(例:スピリチュアルカウンセラーなど)がない。スピリチュアルカウンセラーという肩書きうらやましいなんて思ったことは生まれてこの方一度もないけれど。
私は、自分が労働者である自覚はあるし、そこにアイデンティティーだってある。ごくありふれた人間である故に他人と共有できる感覚があることが嬉しいし、連帯できるってのが頼もしくてたまらないし、それゆえに見えることや感じることがあることは素晴らしいと思っている。私は一般大衆だ。いや、私が一般大衆なんだ、と言い切ってしまいたいくらいだ。



昔は「私は他人と違う」なんて思っていた時期もありました。皆さんが思うのと同じくらい思っていましたよ。って、その時点で一般大衆なんだけどな。
その時はそんなことはもちろん自覚できなくて、なんでもない自分が恥ずかしくてたまらなかった。肩書きがない自分を呪ったもんだ。何もやってないんだから肩書きなんてできるわけないし、誰かに注目されるだのあるわけがないんだが。
しかし、こうしてwebで自分の思ったこと感じたことを吐露していくうちにそんなものはどうでもよくなったのでした。
そんなものあってもなくても自分は自分だし、自分に驚きだとか怒りだとか、くだらねーだとかおもしれーだとか、そういうことをもたらしてくれるのは自分のあまりにも一般大衆的な生活と感覚だということに気づいたから。
私の周りの世界はくだらなくて、どうしようもなくて、世の中ではさして重要ではない、別になくても一向に構わないようなものだ。でもそれ以外知らないし、その周りの世界がつまらないなんて思ったことはない。これは誇張などではない。
最悪だ最低だと思うことはよくあるし、つまんねーと思うことも実はあったりするけれど、「違う世界に行けばもっとおもしろいのかも」なんてのは思わないなあ。思うのは「夜汽車のブルース」聴いた時くらいだなあ。


余談だが、私は旅好きであるけれど、「よりおもしろい世界を求めて」「現実から逃避するため」の旅などはしたことがない。
そうではなくて、旅先に、遠く離れた土地に自分の感覚を共有してくれる人がいて、そういう人たちと知り合うのが楽しいのだ。で、そういう遠い土地も日常の一部になってしまうのがたまらんのだ。
しかも私の旅って出張多いしね。
出張って仕事(日常)の拡大版だからな。





話がそれた。
で、私ははてなのプロフィールに


>普段はドカチンみたいな仕事
>しかし仕事とは関係のない交友関係ばかり広がっている、一体なんなのかよくわからない人。


と書いております。自分でよくわからない人って書くのはどうなんだ、という疑問はさておき、この「仕事とは関係のない交友関係」について書きたいのです。
私は労働者でありますが、どういうわけかAV業界の方と仲良くさせていただいておるのです。
どういうわけか、って勿体付けすぎだ。今を遡る事6,7年前にAVライターの方と知り合って、その方と仲良くしていくうちにいろんな人と知り合ったのです。何度も書いているけれど人間の縁ってのはよくわからないもんだ。
しかし労働者のわたくし(当時は大学生)がAVライターと知り合いになったのは、今思えば全然偶然なんかじゃないのだ。これこそがナミイおばあ言うところの
「ウティングトゥ カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」
だったんだと心から思う。
AV業界は特殊な業界だと思うけれど、そこにいる人たちは何も特別じゃない人が多い。中にはどうしようもない人もいれば尊敬の念を払う人もいるけれど、私は少なくとも皆生身の、同じような人間として付き合わせていただいている。まあ、私が業界の人間ではないしAVの熱狂的なファンじゃないというのも大きく関係しているんだろうけども。
私はAV業界の方々の生身の人間ぶりが好きだ。
それはたぶん、彼らが「セックス」を生業にしている分、生きることに正直だから。
「セックス」っていうのは生きることそのものだと思うんだよなー
私はセックスなんて全然きれいなもんじゃないと思っている。だって生きることなんて全然きれいなことじゃないからな。どうしようもないことだってあるし、くだらねえことだってあるし、意味がないことだってある。
でも、するんだよ。
私はジョージ秋山「ピンクのカーテン」に繰り返し出てくる


「人間て哀しいよね、セックスしなくちゃならないからだよ」


という言葉に大変感銘を受けているのだけれど、それはセックスしなければならないって言葉が、まんま「生きなければならない」「生きてくしかない」「生きていっちゃう」に聞こえるからだ。
AV業界の人たちは、意識的だろうが無意識だろうが、そういう「避けては通れないもの」と向き合っている。でも本人たちは全然特別じゃないのがいい。


人間なんて皆ちんこもまんこも持ってるんだから、誰だってセックスに興味はあるし、したいとも思うものですよ。
で、実際したりしているのに、その業界に従事している人間を明らかに差別の目で見るのはなんともいただけない。
特にAV業界に籍を置く女性に対する「汚い」「汚れている」感覚は凄まじいものがあるな。(風俗嬢もだが)
私も昔は「なんでAV女優(風俗嬢)をわざわざやるんだろう、こんなにきれいなネーチャンたちが」と思っていたことがあるが、今はまったく思わない。


だってAV女優の人たちって、ものすごく等身大なのだ。


私も女優さんは何人か会って話したことがあるが、本当に、なんの気負いもなく接したことしかないであるよ。年齢が近い方が多いから、考えていることも感覚も、時代背景もすんなりと共有できる。会社なんかの表面上をなぞるだけの女子なんかよりずっと濃い話もできるし、楽しい。
それはたぶん、彼女たちが「セックス」を仕事にしているという時点で常に生きることと向き合っているからだと思う。生きること、あるいは自分と向き合っている人間は、それだけで深い。
「人前で股開いている何も考えていないバカ女」ではない。
「セックスに溺れている安い女」でもない。
何も考えてない女や安い女なんて他所にいっぱいいるからな。(って、女優の中にはそういうのもいるんだろうけどさ)



今回取り上げる「“恋愛”できないカラダ 名前のない女たち3」はAV女優のインタビューを中心に構成されている連載コラムの単行本である。名前のない女たちシリーズはすでに2作出ている。1巻は他人感覚で読んでいたんだが、巻を重ねるごとに「ふーんこんな人たちもいるんだなあ」感覚は見事に消えていった。


ここに出てくる女の子たちは、本当にどこにでもいる女の子達なんである。
彼女たちの生い立ちは不幸なものも多いし、過激な言葉も飛び交うけれど、本当に問題のない家庭なんてどこにもないだろうよ。いわゆる普通の家庭で育っても「父に嫌われていた」だとか「母の顔色を伺ってしまう」なんて問題はいくらでもある。私だって親との関係はいつも悩んでいるさ。その解決法として「セックスしまくる」だとか「セックスを生業にする」だとかが特別で、酷い事のように思われているけれど、そんなことはない。
誰だってまんこがついている限り、彼女たちになる可能性はあるんだよ。
この本に取り上げられている女の子たちになる可能性はないわけではないんだよ。
私だってそうだ。誰も見たくないだろうけどさ。


でも、
「母親とうまくいかない」だとか
「ダメな男ばかり付き合っちゃう」だとか
「寂しくてしょうがない。ひとりになるのが怖い」だとか
「恋愛するのが怖い」だとか
どれも特別な不安ではないし、
セックスしてようが「この世をどうにかしなくっちゃ」と思うことだってあるだろう。決して頭おかしくもないし、汚れてもいない。いや、彼女たちが汚れているんだったら、女はみんな汚れてら。男も言うまでもなく汚れているし、そもそも人間なんて汚れしかいねーよ。



本書は過去3作の中でもっともよかったです。
このシリーズはどうしても著者の主観が強すぎて、「女の子がこんな言い回ししねーだろ」とか「常にエラそうだよなー自分の言いたいこと言わせてるみてーだな」と思わされてきた箇所も多かったが、今回はそんな主観がどうでもよくなる。
それくらい女の子たちの考えていること、感じていることが普通に共有できた。
正直、あまりにも共有できすぎちゃって涙出た回もあったくらいだ。
これは是非とも女性に読んでいただきたいです。そして彼女たちと自分は何も変わらないということを読み取って欲しいよ。
我々は皆「名前のない女たち」という肩書きでぶっとく括られている、と実感していただきたい。




追記
本書の最後に収められている「飛び降り自殺したあるAV男優の物語」が、実は一番グッときました。
人間って哀しいよね、セックスから逃れられないからだよ。って呟かずにはいられない。
電波男」読んでいるような暇があったらこれを読むべきだ。

今、底にある危機


「あの橋の向こうに」(画像をクリック)
 戸梶 圭太・著 実業之日本社・刊




「女の気持ちをリアルに描いた」



と紹介されている恋愛小説は数多存在するし、多くの人に読まれているし、私も過去に何冊か手にとって読んだことはあるのだが、
実は、私はこういう触れ込みで紹介されている小説はあまり読みたくないのだ。
理由は2通りある。



1、全然リアルじゃねーよと思わされるから(8割弱)
2、なんでこんなに生々しいんだよ・・・と閉口させられるから(2割強)



「あまり読みたくない」ってのは前者にあたるものについてであって、実は後者のほうの小説は読みたいところもあるな。ちょっとウソつきました。読んで「うあー古傷がイテェ!私もそんな覚えあったわ」と思いたいものな。マゾか。
全然リアルじゃない恋愛小説ってのは、まあ、相手が病気で余命いくばくもないものだったり、ひょんな出会い(このひょんって言葉が使われているものは大体ダメだ)から始まり、片思い奮闘してハッピーエンドみたいなものだったりいろいろあるが、
「こんなドラマみてーなキレイ事やご都合主義はあるわけねえだろう」
と直感で思わされたら即刻アウトだ。
実際の恋愛ってのは楽しいこともときめきもあるが、大部分がつらい。しんどい。その当時は泣く事も何度もあるが、今思い返してみれば「なんでそんなくだらねえことで泣いたんだろう」と思わされるようなことばかりである。恥をしのんで告白すると、私は「ゲーセンに行きたくない」「ポロシャツを着て欲しくない」だのといったことで泣いたことがある。本当の馬鹿とはこういう人物のことをさす。
 私の例は極端かつ幼稚なものであるが、実際の恋愛って「あなたに会いたくて」泣くだの「ただ顔が見られただけで」幸せだのということはない。「顔が見たい」「あなたに会いたい」なんて聞くと「一途な恋が織り成す美しい行為」のようにも聞こえるが、そのために例えば、真夜中に駆けつけるという行為は次の日の仕事に差し支えるし、タクシー代だってバカにならない。
そして、何よりも相手の都合や迷惑を考えていない。
小説の世界では相手もウェルカムと受け入れてくれるかもしれないが、現実はそうでもないのだ。真夜中の訪問は「うざい」と思われストーカーよばわりされて破綻することのほうがよっぽど多いことだろう。(付き合った時期にもよりますが)
あと「会いたい」や「ただ顔が見たい」は、ずばり「セックスしたい」の言いかえであることも多いので、やっぱり美しいものではないと思うんだよな。
フィクションの世界にそのような現実的な生々しさを求めていない、という声も多いだろうが、私はそういう、目を逸らしてしまいがちな部分を書いている小説に惹かれる。
あるいはみんながキレイ事で隠蔽しているようなことを潔く書いている小説に惹かれる。
恋愛なんてセックスの導入部分だ!とか
そんなのは恋愛じゃなくて性欲だろうよ!とか
性欲を恋愛だと思ってしまうと女は別れ際、修羅になる!とか
彼氏がいる主義ゆえに別れる時の泥沼凄まじい!とか
それこそが女の気持ちをリアルに描いていると思うのだ。
最近では女性作家の描くこういうリアルな小説もたくさんあって、私も大変興味深く読ませていただいている。
男にさんざんな目に遭わされたり、使わなくていい気を使って身を滅ぼしたり、どこから湧いてくるのかわからない妙な行動力に突き動かされて余計なことをしてしまったりしている主人公の姿を見ると、かつての自分や、自分の持っていた感情が自然と投影されて、心から「いてぇ!」と思うものだ。自分のダメな部分を指摘されるのは非常に重要なことである。
しかし、どうしても同調できない部分がある。
それは筆者の「でも、彼女は必死で恋愛しているんですよ」的同情のまなざし部分である。
どんな目に遭おうと恋をしている主人公=女だけは肯定。
私も女なんでこの肯定したい気持ちはわかるのだ。全部ダメなんていったら生きていけない女は沢山居るし、恋をする部分まで否定してしまっては元も子もないというのも納得できる。何よりも筆者自身が女性ということもあって、ダメな恋愛をしている人間を他人事に思えないと思ってしまっているんだろう。
わかるんだが、ここまで過去の行いを、冷水が勢いよく流れ落ちる滝に打たれながら回想し、そこから立ち直るぞ立ち直るぞと修行しているのに、この部分はまるで、その修行後滝から上がったら、ふかふかのタオルと温かいミルクティーを出されて「ハイ、ご苦労様」と言われるようだ。そして尼さんがまるでわが身の様に「わかるわぁ、その気持ち」と言ってくれるかのようだ。どんな喩えだ。
そんな生ぬるさはいらんのである。
男の坊さんに客観的に渇!渇!と叩かれるほうがいい。「お前はダメだ!」「そんなのは恋愛じゃないぞ!肉欲だ!」と言われるほうが脱却せねばという気持ちに駆られる。あるいは滝から上がろうが無視、あるいは皮肉のひとつやふたつ言われるほうがここから這い上がらなければという気持ちになる。マゾか私は。



本日取り上げる戸梶圭太の「あの橋の向こうに」は2003年に発表されたものなんだが、
読んだのが最近なのです。今までなんで知らなかったんだ!と後悔したほどだ。
これまで読んだ中でもっとも「女の気持ちをリアルに描いた」小説です。
女の気持ちどころか、生活や、生態や、どうしようもなさや、勘違いぶりや、激安ぶりや、クズぶりや、何にもなさ加減などもリアルに描かれている。
それを戸梶圭太(言うまでもなく男)が書いているのだからまさに奇跡の一冊である。
まあ、戸梶圭太は女だけでなく人間の生々しいクズ/激安部分を書かせたら右に出るものはないんだけども。



主人公は20代後半のOL。
池袋から1時間以上離れた埼玉のとある町に住んでいて、
仕事は単純な事務だが朝から晩まであって、
同僚はオヤジと暗い女と攻撃的な女でうんざりで、
家族は私のことを何も考えてくれていない。
そして自分は太っていて
男にも相手にされないし、友達も居ない。
通勤電車は臭くてノロくて、
住んでいる町は駅前だけが整備されたけどあとは大したことなくて、
家から駅の間にある橋は巨大トラックが行き交い、自転車は歩道を走ってはいけないんだが
死にたくないので歩道を走るとじじいやばばあが鬱陶しい。



フィクションの登場人物でありながら、こんなにもどこにでもいそうな女なのである。
こうやって羅列していくとまるでノンフィクションのようだ。
ドキュメンタリーのようとも言える。スティーヴィーにも匹敵するクズぶりだ。
一言で言うと「冴えない女」である。
その冴えない女の言動や思考がこれまた冴えなくていちいち素晴らしい。
ゲロくさい満員電車で楽しいこと考えなきゃ、と思って考えつくのが
「もしも宝くじで3億円当たったらどうしよう」
だから。
私の周りにも宝くじ3億円シュミレーションを話す人がいるが、その人がどうであれ、この話題は本当にくだらないと心から思う。私は宝くじを買ったことがないのでこんなことを言う資格はないかもしれないが、当たってから考えろよ!というかそんな夢見るなよ!
あとこの主人公は「具合が悪い」依存症だ。頭痛いだの腹が痛いだの気持ち悪いだのなんだかんだ。
こういうのも身近にたくさんおりますね。こないだも電車の中で見かけました。「そんな人いない!」なんて言い張る奴が居たら吊るし上げてくれよう。
いない、と言う女はおそらく表面的な会話をしておきながらすべてスルーしているのだろう。あるいは馬なのかもしれない。



この冴えない女は、冴えない女のくせに「周りが悪い」と思っていたり、「どうしよう」と言っていながらでも何も変えるつもりはない。
文句だの「どうしよう、ヤバイよね」とは一応言うけれど、大抵流されて、なんだか意志があるような気持ちになっちゃって、でも実は全然なくて、そこでまた「どうしよう」「ヤバイよ」と一応言う。
無気力悪循環。
自分を変えなきゃという気持ち皆無。
食っていく事に関する危機はないのでこういうことになっているんだろうが、それにしても「今の状況やばい」と口では散々言うが今、自分を変えることに対しては梃子でも動かない人ってのも沢山居ます。
これも「こんな人いない」なんて言わせねえぞ。
私も「自分を変えるつもりがない」というのは身に覚えがあって、いやはや、本当にまずいなあと思う次第です。というわけで最近は変化に向けて動き出しているわけですが、この小説を読んでいたら変化しないで今の環境を保とうとする女=すなわち昔の自分がいかに愚かでださくて安い女なのかを見せ付けられているようで、本当に早く這い上がらねばと思わされました。
戸梶圭太は現状に「どうしよう」と言いながらもすぐに「でも、いいよね、周りが悪いんだから」と責任転嫁する女を叱るんでもなく同情するんでもなく「ダッセエ女!」と吐き捨てながら意地悪く見ているだけなのだ。
見られているという行為は本当に堪える。なんとかせねばと思う。
そして、「私はこの主人公とは違う女にならねば」と心から思わされる。
(もっとも、本当に激安な人間って「私はこんなに酷くない」「私はこの人と違う」とか都合いい自己解釈してしまうんだけどな。激しく立ち位置の間違っている女。そういうのに限って小説以上に酷いんだけど。救い様がないんだけど)
何度も書くが、それくらいこの女の激安ぶりはどこまでいっても凄まじい。
しかし、すべてが「ありえねー!」ではないのだ。ありえる/すでに起こっている/経験あることなのだ。
肉欲と恋愛が混同するのは誰にでも起こる現象だし(混同したままの人間のほうが多いくらいだ)、女だってオナニーはする。どうしようもない妄想を膨らますこともある。程度の低いスリルを味わうこともあるし、どうしようもない人だかりの中の人間になってしまうことだってあるだろう。
上記のようなことを戸梶圭太は、前述の「ダッセエ女!ケケッ」という視点で書いてあるので、汚いことと安いことと醜いこととグロいことまみれだ。顔を背けたくなるような描写も数多くある。
しかもそれが全編を通して勢いだけでテンポよく書かれているからすごい。
そして戸梶圭太がよく多用する、意地悪く強調したい部分が大文字/太文字になっているネットの文章のような文体も痛快だ。





ちなみにweb上にアップされている本書の感想文を見ていたら
「卑猥な言葉満載」
「性愛描写がグロテスクなほどすごいので、電車の中で読んでいて途中でページを閉じてしまった」
と書いている人が多かったです。
主人公に感情移入できないだの恋愛小説じゃないだの、女性をバカにしています!などという意見もよく見かけたな。
こういうことを言える人間てのは、激安人間は目に見えないんだろう。戸梶圭太の小説も読まないんだろう。
戸梶圭太はものすごく多作なのに、賞的なものと一切無縁なのが、激安人間を意識の中からシャットアウトの構造と似ているような気がする。いや、一切無縁なところがまたたまらんのだが。
自分の世界から伸びている橋の向こう側は、まさにその激安人間の世界だというのに。地続きだというのに。
自分の中にもある部分だというのに。



それにしても激安人間を自分と切り離している人ってのは、自分の中の激安部分はどうしてるんだろう。
なかったことにしてんのかな。
その、「自分は違う/そんな部分はない」という発想がすでに激安人間の始まりなんだけどな。

ロック・ザ・カス場

フランス暴動 移民法とラップ・フランセ」(画像をクリック)
 陣野俊史・著 河出書房新社・刊


今回は長いよ。覚悟してくだされ。


今朝(2006年4月11日)の朝刊に載っていたニュースはなんとも感慨深いものでした。
やや長いがasahi.comより転載


仏首相、若者向け新雇用制度を撤回


フランスのドビルパン首相は10日、国民向けに演説し、26歳未満を雇えば理由を示さず解雇できるとする新雇用制度(CPE)を、最近成立した機会平等法から削除する方針を発表した。労働組合や学生団体が大規模な抗議行動で強く反発したCPEの事実上の撤回だ。07年大統領選に意欲を燃やす同首相の政治力は大きく傷ついた。若年失業の抜本解消策は先送りされた形で、「痛みを伴う改革」の難しさを浮き彫りにした。
(中略)
 UMPのアコワイエ国民議会(下院)議員団長は、数日中にCPEに代わる条項案をまとめることを明らかにした。AFP通信は代替案について、低学歴や移民社会の若者の就職を支援する措置になると報じた。その場合、「解雇しやすくすることで雇用を創出する」ショック療法は放棄される。
(中略)
 ドビルパン首相は1月、22%を超す若年失業率対策としてCPEを打ち出した。だが、野党や労組との事前協議、議会審議を省いて法案を採択した強硬姿勢が強い反発を招き、3月28日と4月4日の反対デモでは参加者が記録的な100万人(警察発表、主催者発表は300万人)に達した。大学や高校の封鎖も全国に広がった。


失業率10%以上、26歳未満の若者の失業率は22%にもおよぶかの国が打ち出した
「企業は、若者を簡単に解雇する(雇用2年以内のみ)ことができれば、積極的に若者を雇用するようになる(推測ではなく確信)」
という本末転倒、なんともトンチキな法律は、当たり前だが撤回された、というニュースである。
何かのニュースで学生が
「辞めさせられる為に働くなんてバカげているわ」
と声を荒げていたが、もっともな話だ。
どこの国も若者の生活、命を軽視する方向に向かっていると思われるが、法律でそれを明言するなよ。
法律ってのは人民のために存在するものではないんだなー弱い立場のものを庇護する為に存在するんではないんだなー。絶望のどん底にいる若者ではなく企業や、国の経済や、要するに金を守る為に存在するのか。ばかやろう。
フランスから遠く離れた極東の、冴えない企業ながら正社員(勤続4年以上)の、26歳ジャストなわたくしでありますが、この問題に関しては腸が煮えくり返ってたまりませんでした。前述の表記だけを読むと「あんたは範囲外なんだから怒ることないじゃないか」と思われるかもしれないが、就職活動時の苦い経験や、就職後の現在までえんえんと続く雇用問題は、フランスで決められかけた法律と地続きだ。全然他人事には思えない。


「どうせ就職できまい」「でもなんとかなるだろう」という気持ちで就職活動を始めたのは何年か前の4月の終わりのことで、就職が決まったのは6月の半ばのことだった。周りの本気で就職活動をしていた人々に比べればスタートも遅いし、活動期間も1ヵ月半であるから大変中途半端な感もあるが、それでもその時は1日に2社以上回るのは当たり前だったし、加えて卒業に向けての単位不足だったので(ってそんなのは自分が悪いんだが)、授業もフルで出席していたもんだ。慣れないヒールで東京中を駆けずり回るのはそれだけで苦痛だったし、交通費も食事代も常に自分持ちだったからバイトも毎日していたんだった。まさに満身創痍。(しかも若気の至りで、名古屋でも就職しようとしていたのだよ!交通費往復2万!金もたねーよそりゃ)
忘れもしない2001年5月31日。四谷駅間近の「カフェ・ド・クリエ」。
午前中の説明会の後に入ったそこで、甘ったるいアイスティーを飲みながら「このまま就職できないかもしれない」と心の底から感じた。絶望的だった。説明会に来ていた職を求める大勢の学生たちの表情はどれも暗く曇っていた。疲れた表情からはどうしても就職したいという気持ちが滲みでていた。自分もそうだっただろう。
その餓鬼のような学生たちの前に立ち、説明会を繰り広げた企業の人間は、形式的な説明会を行っただけだった。もう何度も開催されているであろう説明会で、「うちが欲しい人間はすでに獲得しましたから」と言わんばかりの顔、声、言葉、態度。ここに入っても希望はない、と感じた瞬間だ。あとどれくらいこんなことが続くのだろう、とその時私は思ってしまったのだった。そんな些細なことで絶望するんじゃねえ、と今の私だったら思うが。
でもその時は本当に絶望的だったのだ。職がない、ということがどんなに不安をもたらすことなのかを実感したんだった。
偶然なのか必然なのか、それは自分ではわからないが、絶望を垣間見たその日の午後に向かった会社が今の会社で、なんとか就職することができた訳だが、私はあの日のあの瞬間に感じた不安をこれからも忘れることはないだろう。


今、私はできれば今の会社を辞めたいと思っているのだが、あの瞬間に感じた不安が再び直に目の前に現われることが容易に想像できるので思いとどまっている部分が多分にある。


では今の会社に居れば安泰なのかというと、そうではない。
労働組合を持たないこの会社では、従順な社畜候補だけが安住権を持っている。
仕事が終わらないだのなんだのと理由をつけては遅くまで残り(実際そうなんだが)、何日も帰っていないことがまるで勲章のように語られる様を見ていると反吐が出る。順調に自分の仕事をこなして定時に帰れば「仕事していない」と言われるという風潮。休みを取る権利も早く権利も反故されても何も言わない彼らと職場を共にしている身としてはなんともやりきれない。
しかもそこまで会社に尽くそうが上の人間に嫌われれば辞めるように仕向けられるのだうちの会社は!
つい最近、そんな事態をきいたばっかだ。比較的身近な関係の人間にそんなことが起こってしまった。
労働とは一体何なのか。労働者とは一体何なのか。
今こそ権利主張をするべき時だ、という思いにどうしようもなく駆られたが、自らを一切変えることをしない会社の体質を考えると湧き上がるのは絶望しかない。自分もいつ切られるかわからない、という不安とともに。
それがとても歯がゆい。個人ってのはなんて無力なんだ。
変えられるのは自分しかないという限界ぶりを目の前に突きつけられているかのようだ。




「フランス各地でデモや暴動が起こっている」というニュースは、去年の秋ぐらいから報道されていて、今年に入ってからもその動きは絶える事がなかった。正確に言うと去年の秋に報道されていた「暴動」と今回、この撤回宣言によって収束された「暴動」は異なるものである。若者文化という言葉で一括りにすれば同じだろうし、前者の暴動が後者の暴動に影響を与えていることも確実であろう。
今回取り上げる「フランス暴動----移民法とラップ・フランセ」という本は前者の暴動を受けて書かれたものであり、労働者の権利主張については、ハッキリ言って一言も触れられていない。
去年の秋に起こった暴動について説明すると、パリ郊外の「シテ」と呼ばれる郊外集合住宅(平たく言えば「団地」ですな)に住んでいたアフリカ系移民の少年二人が警察に追われていて、逃げ込んだ変電所で感電死。その事件を発端として、パリ郊外で若者の怒りが爆発、暴動は各地に飛び火し、フランス全土に拡大したのだった。
暴動を鎮めるために政府は非常事態宣言を発令したり、各地で夜間外出禁止令が出たりしているようだが、国内治安の最高責任者であるサルコジ内相が彼ら移民二世の若者を含む郊外に住む若者を「社会のクズ(ラカイユ)」「ゴロツキ」「一掃する」と言ったことも暴動に拍車をかけたようだ。フランス全土で車が焼かれ、病院や学校が壊され、死者が出る惨事にまで発展した。
フランスは多民族国家であり、かつては数多くの植民地を有していた。それらの元植民地から職を求めてフランスにやってきた「移民」たちの苦労も計り知れないが、移民二世にとってはフランスこそが生まれた土地であり母国である。しかし彼らには行き場がない。
職もなければ居場所もない。郊外で何もせずにたむろっているというだけの日々。なりたくてなったわけではない立場に行きたくて行ったわけではない場所。そこに居ることしかできないのである。積極的に彼らを見えないふりしてきた人間ら(彼らに差別のまなざしを向ける者。しかもそれが国家権力者なのだ!)に、クズよばわりをされて、しかも一掃するなどと言われてはたまったもんじゃない。
人間なんである。一掃なんかされてたまるか。
暴動は美しいものではない。言うまでもないことだが、暴力はなんの解決にも至らない。憎しみが憎しみを呼ぶだけである。


しかし、これは彼らの生命の叫びなのだ。生きる権利を奪われる寸前の、精一杯の抵抗なのだ。


2005年秋の暴動は主に移民二世の若者を中心に据えて展開されたものであったが、そこから続く今年の暴動は、若者全般が中心となる。もはや移民だけの問題ではない。
若者自体が「ラカイユ」であり、「ゴロツキ」と認定されてしまっているのだ。アフリカ系移民の少年が感電死する以前からきっとそうだったのだろう。
それはフランスを遠く離れたこの国でもそうだし、世界のリーダーを気取るあの国でもそうだ。すでに世界中がそうだ。
国家単位にとどまらず、私が会社で行われていることもそれとなんら変わりがない。「どうせすぐやめる根性のない奴」と勝手に認定され、使い捨てのように消費されるのは「若者であるから」という理由が少なからずあることだろう。
若者が無力なのは、若者を無力にする環境/若者に力を持たせない構造/若者にモノを考えさせない状況を上の人間たちが作りあげてきたからであって、我々は決して無力なんかじゃない。こんなにも生命力に溢れているし、何かがしたくてたまらないじゃないか。いつだって不安は過ぎっているし、どうすればいいんだろうと考えているじゃないか。
不安が漠然としたものすぎて、改めて考えるのが厄介で、つい目の前の欲望に突き動かされてしまいがちではあるが、そんなのは人間だからしょうがない。ただ、上の人間らが敷いてきた状況にうまく順応する為に、考えることを停止するなんて愚かなことはもう終わりにしたいと心から思う。暴動を起こせ、なんて言うつもりはさらさらない。
ただ、そんなものに決して飼いならされるな。
そこから零れ落ちただけで「終わりだ」なんて簡単に思ってはいけない。
とにかく考え続けて欲しい。これが、今の状況が本当に正しいのかを。
自分は大丈夫だろう、関係ないだろうなんて他人事で括らないで、自分の身にも起こるかもしれないと想像し続けて欲しい。
自分の言葉で考え続けることによって、自分は「社会のクズ」なんかじゃないと自覚できるから。
考え続けることによって、それはその人の主義となり、自然とこの身から溢れ出して主張となる。
そして、言うまでもないことだが、主義主張がありさえすれば、「自分が今、やるべきこと」が見えてくる。それに突き動かされる。思考の停止も愚かしいことだが、行動を停止することも十分愚かしいことだ。
ボブ・ディランではないが「やるべきことをやるだけ」だ。
あるいは動き回りさえすれば、世界をもっともっと知りさえすれば、考えるべきことに直面するだろう。そこから主義主張が生まれるだろう。
個々が主張を語り合い、連帯していけば、構造はいつかどこかで変わる気がするんだよ。分断された、無力な世代からの脱却が図れると思っているのだよ。
これは私の希望なのだが、果たして実現はするのかしないのか。


本書は移民の叫びをフランスのラップの歌詞から読み取ろう、という趣旨の元に書かれているが、ここに載っているラップの歌詞はフランスの郊外に暮らす、移民を出自に持つ若者たちの紛れもない主張である。ラップというだけで腰が引けてしまう方も多いかもしれないが(私もそうだ)、ここに紹介された歌詞には浮ついた、軽薄な言葉などまったくない。すべてが直の生活の、生の言葉である。
シテの若者の生身の言葉を受け止めるならば、ラッパーがリリースしているCDを聴く事が最善なんであろうけども、残念ながらフランス語がわからない日本人には「勢いだけはズシズシと伝わってくる」程度になってしまうことだろう。
正直、本書は決していい作品ではない。特に最後の章は読み飛ばしても構わない。
しかし、無下に駄作と言い捨ててしまうことができないのは、フランスの状況を少しでもわかるための手立てになるかもしれないから。そしてそれが日本の、今の、自分たちの状況とリンクするところがあるかもしれない、という希望を捨てきれないからだ。海の向こうの遠く離れた国で起こっていることを、決して他人事なんて思いたくないからだ。
フランスの郊外も日本の郊外もさして変わりはない。
団地も犯罪率も職がない具合も何もかも一緒のように見えた。希望がない具合も絶望ぶりも。
この本を読んでいると、クリシー・ス・ボワ市は足立区や船橋市と隣り合っているんじゃないかとすら思えてくる。
移民問題はないじゃないか、なんて声もあるだろうが、外国人労働者は言うまでもなく、職や生活の豊かさを求めて東京にやってきて、団地に住んだり、郊外の建売住宅に住んだりしている人間も移民と同じような気がする。無論差別ではない。東京が故郷の私も、ずっとここが故郷という気持ちがしないでいる(自分の出自、拠り所をずっと探し求めているんだ私は)。


本書に沿ったフランスと日本の最大の違いは、ラップが肉声が反映される器ではない、のような気がする。
私が日本のラップに腰が引けてしまうのは、金持ちの全然現実的じゃない言葉だけが使われているような気がするから。郊外の改造車から聞こえてくる音楽は今も変わらずパラパラや「ベース野郎」シリーズや浜崎あゆみだ。やや古いかもしれないけれど。(余談だが、私はベース野郎が大音量で鳴り響く改造車に乗ったことがある。しかもウーハーの上にな。酔って酔ってたまらんかった)日本語の、生の声を反映する器としてのラップを私はとてつもなく聴きたい。もしかしたら既にあるのかもしれない。調べてみるとしよう。

マイノリティはトラディショナルを救う

「ちゃんこ」(画像をクリック)
東京 新宿グランドオデオン座、Tジョイ大泉他で上映中
全国順次公開予定




火曜日更新とか言っておいて水曜の更新でごめんなさい。
ここんところドキュメンタリー映画づくしでありましたので、久々に非ドキュメンタリー作品を見てきました。
「ちゃんこ」という邦画です。


何年か前に「ズームイン!朝」で広島大学の相撲部特集が組まれておりました。私はそれを偶然見たのでした。
広島大学の相撲部は部員がどんどん減っていて、というかゼロになっていて、廃部の危機に晒されていたところに外国人留学生と女性部員が入部してなんとか相撲部を存続させたというレポート。ズームイン朝では何度かこの特集を組んでいたような記憶がある。
相撲部ってことで「実話シコふんじゃった」と言われていたが、その広大相撲部を映画化したこの「ちゃんこ」は「シコふんじゃった」とは全く違う映画になっておりました。
周防監督作品ほど話題にもなってないし、予算もそんなにかかっているわけでもない(むしろ低予算の匂いプンプン)。加えて主人公はまだ新人に程近い女優さんだ。

なのにこの映画は、相撲映画なだけでなく、「がんばっていきまっしょい」や「スイング・ガールズ」のような少女の成長記であり、図らずして、製作費何百億円のYAMATO映画や本年度のアカデミー賞作品賞「クラッシュ」をも凌いでしまうほどの人種問題/平和問題にも触れている、まるで奇跡のような映画でありました。
しかもそれをごく自然に、さりげなく、でもハッキリと描いている。これを奇跡と言わずなんと言う。


相撲というのは、日本の中でももっとも前近代的で、保守的で、男根主義な思想が残るものだ。
昨今はあまり言われなくなったが、外国人力士が横綱大関になれば「日本の権威堕ちる」とすぐに言われるし、外国人横綱に対する行動バッシングは日本人のそれとは比べ物にならない。そして、未だ女性が土俵に上がることは当たり前のように禁止されていて、上がろうとしようものならばこれまた批判が飛び交うという現状である。
「相撲は日本の国技」「最後のサムライ魂」などと平然と言う日本人男に、前から私は「だったらお前が相撲を取れよ」と思っていたのだが、そういうことを平気で言う男ほど相撲はやらないからな。
己のプライドすらも自分で背負うのは責任重大だから、他人に背負わせてしまおうという具合。
「他の日本人が背負ってくれればいい。でも女やガイジンはダメ」ってなんだよな。抑圧知らずのマジョリティのクセに腰が抜けたこと言ってるんじゃねえや。
で、この映画に出てくる相撲部はそんな「日本人男性の不在」を見事に反映させている。
ブラジル人のカブレラカザフスタン人のアバイ(イスラム教徒)、アメリカ人のケント(白人)、同じくアメリカ人のマイケル(黒人)、そして主人公の中田由香という部員構成がいい。
彼女と彼らが必死に廻し姿でぶつかり合って、闘いあう姿は、相撲の枠を越えて現代日本すらも反映しているようだ。
今や日本で、「男の土俵」と呼ばれる会社社会などで職を失いたくない、なんとかしなきゃ、と必死で働いて、権利を獲得しようと、よりよい賃金を獲得しようと闘っているのは女性と外国人労働者であるから。
YAMATOなどの映画も、本人たちの意図するところではないんだろうけど、日本人男性が闘っていたのは「過去」って描いちゃってるもんなあ。
なのに未だ日本人男性は「俺がナンバーワン」を掲げているわけで、この映画の中でも居酒屋で呑んでいた相撲部員に「ガイジンはうるせえ、日本から出て行け」「女のクセに俺らになんか言いたいことあんのかよ」と絡んでいき、彼らに暴力を浴びせる日本人男性が登場するし、「結果を残せていないんだから廃部するべきでしょ、我々だって予算が足りないんだから」と廻し姿の主人公を嘲笑する大学部活動委員も登場する。
そのたびに、抵抗せずに殴られても(外国人は「ここは平和の町です、暴力はダメ」と言うんだけど、哀しいかな、日本人には広島って「仁義なき戦い」=ヤクザの町って認識なんだよなー)「殴った」ことにされて責任を問い質され、女性顧問は予算を獲得する為に土下座までするという理不尽ぶり。
でも、彼女と彼らは決して相撲をやめない。理不尽な扱いをされても決して土俵を降りない。
これも、どんな扱いをされようとも、「生きていく為に」仕事を辞めない/辞める事ができない現状をよく反映していると思う。
それでも「女とガイジンはダメだ」と言えるだろうか?


また、様々な人種が入り乱れる相撲部部員は誰一人として特別に描かれていないのも素晴らしい。
ブラジル人のカブレラはたったひとりで相撲部を続けていたし、必死の勧誘も行っていて前半は沢山登場するので一見外国人側の主役のようにも見えるけれど、最後のほうは全然特別ではない。その公平ぶりは、ともすれば「ぞんざい」「都合がいい」などと言われそうだが、そのぞんざいぶりがかえっていいのだ。ただの「相撲」なのに、銃も憎しみによる暴力の連鎖も出てこないのに、こんなにも人種を公平に描いているなんて。もうハリウッド映画なんて見ている場合ではないよ。



などという社会的な面をさりげなく描きつつ、「ちゃんこ」は主人公の中田由香の成長記でもあるのがまた頼もしい。
大学に入って、何かをやりたいんだけど、体の中をぐるぐる渦巻くものがあるんだけれど、それを皆と同じような方向にはどうしても向けられなくて何をしていいのかわからない、というモヤモヤで固まってしまって、空虚なんだけどどうしようもできない姿には胸が痛むなあ。自分にも十分覚えがあるなあ。
選択肢は必ずしも「合コン」「飲み会」だけではないのだけれど、そういうところにうまく順応できるか否かが迫られるのが大学入学時なのだよな。言葉も少なく、人と会うのを避けて、どこにいても居づらいと感じているような姿が実に自然だ。そういう姿は、時としてヘタにも見えて、なんだかイライラもするが、実際の居場所が見つからない人物は決して演技がかっているわけではないので正しい。何も起こらない毎日の何もないわたし。そのわたしが、なんとなく見に行った相撲部に入って、なんとなくのはずがいつの間にか夢中になっていく過程がこれまたよい。同世代の仲間とチームワークを広げていく青春映画も好きだけど、なんとなく入って、なんとなく相撲がどんどん好きになって、たまたま部活が一緒だった同世代どころか性別も国籍も違う人たちと馴染んでいって、そこに居場所を見つける様もこれまた青春なんだよなー。友情だとか恋愛だとかが中心でないのもいい。
まあ、自然に恋愛は抱くけれど、その顛末もすべてサラっとしている。
そのサラっと具合が時に残酷なのもまた印象的だ。あまりにもごく自然すぎて私は泣けてしまったが。
主人公役の須藤温子がいい!シコ踏んでる姿が凛々しい!むっちり気味の体がだんだん逞しくなっていくのもいい!自信なさげだった顔つきがどんどん変わっていき、声がどんどん出るようになっていくのもまたいい!


そして何よりもいいのは舞台が広島という点であります。
少女が成長していく映画の舞台は日本のどこかの町がいい。「がんばっていきまっしょい」の松山や「スイングガールズ」の山形のように、この映画は少女成長映画の慣習を見事にクリアしている。
少女成長映画であるかどうかに関わらず、日本のどこかを舞台にしている映画はいい。とても陳腐な言い方だけれど、その土地の佇まいや季節の風景、そして地元の人間の顔(途中棒読み演技で登場する広島大学学長も含めて)があるだけで、映画は決して完全なるフィクションではないと思えるから。現実と地続きのどこか、それも希望の方向にあるものとして捉えることができるから。


というように絶賛尽くしの「ちゃんこ」でありますが、気になった箇所を敢えて言うならばセリフかな。
前述の少女成長映画と違って、由香は広島弁を喋らないのです。
まあ、大学なので、どこかから来ているのだろう。必ずしも地元出身の人間がいるわけではないか。
あとカブレラ役の方がやたら日本語が流暢なのもちょっと気になった。けど、流暢な日本語を話す外国人は今や沢山いるし、「外国人は稚拙な日本語を喋るべき」と思っているのもまた、私の偏見なんだろう。反省せねば。





とにかく瑞々しくて清清しい、そして頼もしい映画であります。
海外でも是非上映して欲しいものだ。
東MAXも出ているんだけど、それも結構いい役なんだよな。そして監督がピンク映画出身なのもまたおもしろい。昔はピンク出身の監督が映画に移行するってのも多かったので、それもまた日本映画の伝統を受け継いでいるなあ。

あと、カブレラ役のリカヤ・スプナーがケミストリーの堂珍似でした。
こんなところにも広島愛。実際は偶然なのかもしれないが。