ゲイ倶楽部 吐露ピカーナ


ジョージ・マイケル〜素顔の告白(画像をクリック)
全国で公開中


去年の正月だかお盆だかに従姉妹の子ども(5歳)が
「ディズニーランドでハードゲイを見たんだー」
と言ってきた時、5歳の子供がゲイ(しかもハード)なんて言葉を発するなんて!信じられん!と驚いのだが(当時私はまだHGのことを知らなかった)、
よくよく考えたら私の小学生時代も保毛尾田保毛男が流行っていたんだった。なんだ変わらないじゃないか。
正確に言えばちょっと違うのかもしれないが、今も昔もオカマの方々はテレビに出続けているしな。そして今も昔も「××は絶対ゲイ」「○○は『お姉さま』と呼ばれている」という情報は絶える事がない。
(あえて)男性同性愛文化はいつだって大人気だ。不滅の男男。
私は同性愛について詳しくはわからないのだけれど、秘め事的感覚がいいのですかね。すべての人間が経験できるものではないということとか。
そのわりにはテレビや雑誌などに出てくる男性同性愛文化の当事者はまったく隠さないのだが。すべてあけすけ。
私はあけすけの同義語は「下劣」だと思っているので、つまるところその「下劣」具合がたまらんのかもしれない。人間なんてのは所詮下劣な生き物なのだ。中途半端なあけすけは「下劣」どころか「おげれつ」なので、嫌悪の対象でしかないが、あけすけをさらに全開にすると「エンターテイメント」となるからな。下劣マジック。いけないよ、普通はそこまで。



私は長いこと、ジョージ・マイケルが苦手だった。平たく言うと気持ち悪かった。
ワム!直撃世代ではないので一体どこで彼のことを知ったのかまったく覚えがないんだが、確か「ビバリーヒルズ高校白書」のワンシーンで脇役の人が「アイ・ウォンチュア・セックス、ジョージ・マイケルよ」と言うシーンがあって、「ジョージ・マイケルかよ!キモ!」と思ったことを覚えている。
当時の彼に対する印象は、「うじうじしている」でありました。
過剰に濃いヒゲとかモサモサした髪とかはだけた肌からの胸毛とか革ジャンとかでかいグラサンとか片耳ピアスとか、すべてが「アイ・アム・ゲイ」という主張に溢れているのに、キラキラしすぎの目ややたらと高くて澄んだ声はそれらの濃い、ネッチョリしたゲイぶりとはアンバランスに感じられたのです。(何故アンバランスだと思ってたんだ俺!それも重要なゲイ・アイテムじゃないか!)
そのキラ目と高い声には「ピュア」「繊細」を連想させられたのでした。
一般にはそれらはセクシーの象徴だったんだろうが、私には過剰防備に感じられた。ゲイテイストですべてを固めるのも、そういうものに心底憧れているが根っこの部分に自信が無いような、そんな感じだ。
「濃いゲイなのにピュア」
「猥雑に/セクシーになりきれない男」
それは「ゲイ=男を見つければ、すぐにセックス。一にも二にもセックス」という認識からすると、とてもとてもウジウジしているように思われて、とてもとても気持ちが悪かった。(注:ゲイ自体は全然気持ち悪く思いません)昔から私はうじうじしている男女が気持ち悪い。おそらくそれは、自分にもうじうじしている部分があるからだ。「恥ずかしい」という感覚に敏感な人々を見ると、自分の嫌な部分を見ているようで情けなくなる。
そして、そういう根のうじうじした人間が、反動で「大胆な行動に出る(大胆なセックスアピール)」というのを見ると、自分のことのように慌ててしまう。だあああ、という具合。そういう反動に切り出す気持ちのメカニズムもわかってしまうような気がして、いてもたってもいられなくなるのだ。
ジョージ・マイケルの「アイ・ウォンチュア・セックス」てのを聞くと感じるのもだああ!という感覚。それをビバヒルのようなドラマで使われてるなんて、更に恥じてしまうよ。だあああああ!だ。頼まれてもないのに汗をかく。きもちわりぃよとごちてしまう。今思えば、あの時感じていた「気持ち悪い」はそんな感覚だ。
ゲイばればれなのに気取っている感じも気持ち悪かった。のどの奥に引っかかった骨が取れそうで取れないようにもどかしかった。そういう類の気持ち悪さでもある。先ほども書いたとおり、中途半端なあけすけは単なる「おげれつ」「悪趣味」なのだ。もう、いっそカミングアウトして欲しい。見ているこっちを楽にして欲しい。



と、ずっと思っていたところに、飛び込んできたのが1998年に起こった例の事件である。



>元ワム! の英国ポップスシンガー、ジョージ・マイケル(34)が今月7日の夕方ごろ、
>ロサンゼルス市郊外の同性愛者御用達のいわゆるハッテン公園内の公衆トイレで、
>一人でわいせつ行為をしていたところ、
>ビバリーヒルズ警察の私服警官に公然わいせつ罪容疑で現行犯逮捕された。


宮崎某ではないが「胸がスーッとした」とはまさにこのこと!
しかもルースターズばりに♪ひとりで〜アレを〜の最中にタイーホときた。セックスではなくオナニー。ジョージ・マイケルのキラキラした目/高く澄んだ声はこの「オナニーしてて逮捕」の伏線だったのか、なんてことまで思った。ピュア、ここに極まった感すらある。
そしてこれ以降のジョージ・マイケルの開き直りっぷりが凄まじかった。
「とてもハンサムな警官に反応してしまって、目の前にある罠にはまってしまった」「逮捕でカミングアウトより裸でロンドンの繁華街を俺はゲイだと叫びながら走り回る方がずっとよかった」だのという発言群、そしてなんつっても「アウトサイド」のPV。あれは名作だなあ。単に警官の格好がしたかったんじゃないのか、と錯覚してしまったほど。
やっぱり、あけすけやぶっちゃけは全開にするとエンターテイメントになるのである。ジョージ、おまえは立派なエンターテイナーだ。



そして、エンターテイナーとしてのジョージ・マイケルが更に更にあけすけで全開なのがこの映画なのである。
とにかくもう、ジョージ・マイケル喋る喋る、ぶっちゃけるぶっちゃける。タイーホされた公園まで行ってたから。
おまえ、「プロモーション活動がイヤ」なんではなかったのか。
そう問いかけたくなるほどの喋り具合。関係者の証言も間に挟まれているのだが、多くはジョージ・マイケルによるベシャリ。素顔の告白とかそういう域を超えているよ。ピュアハートってのは開き直ると脆かったのから一転して逞しくなるのだな。清清しくすら感じられる。
途中、アンセルモと母を失った時の独白や歌にはホロリともさせられましたが。
ワム!時代の相棒、アンドリューも出てくるがアンドリューとの会話もジョージ・マイケルがべらぼうに喋っているのナ。ああ、やっぱりアンドリューはビートきよしだったんだなあ。(余談だがマーク・パンサーはアンドリューに似ていたな)



この映画がエンターテイメントたり得るもうひとつの肝はエルトン・ジョンとボーイ・ジョージ(化粧がすさまじいことになっていた。アイメイクがすべて汗で流れたのかと思った)によるツッコミが要所要所にちりばめられていることである。この2人のコメントがピリリと辛口なのだ。ジョージ・マイケル以上にあけすけなお二人だから当然強力。
ジョージ・マイケルだけのベシャリならピュアで繊細すぎるかもしれないが、このふたりは本当にいいスパイスなのですよ。
ゲイの方というのは、愛および性の対象になる男性(と自分)にはとことん甘いが、同性(同じゲイと女性)にはとことん厳しいものである。私の友人にもゲイの方がおりますが、もう、ビックリするくらい私らに厳しいからね。よく小娘が「ゲイの友達が欲しい〜ン」と言うけれど、そんな小娘はこてんぱんにやられてしまうぞ。再起不能になるぞ。
ゲイの友人を持つ最大のメリットは「アンタの立ち位置はここよ」とか「アンタ、ちょっとはみ出しすぎよ」という調子で、自分からは見えない部分を遠慮なく指摘してくれるというところでしょう。ハードな立ち位置確認装置といったところか。自分のことだからつい大目に見てしまうようなこともビシっと言われること数多。
ゲイ→女性でそんな具合なのだから、ゲイ⇔ゲイの場合はツッコミも更に厳しい。「公衆トイレでのカミングアウトなんて最低よぉ〜」「同じジョージでもアタシは違うわよ」という調子のツッコミは、ジョージ・マイケル自身だけでなく、ともすればジョージ・マイケルの「ピュアでおセンチで自己愛大爆発なナルシスト映画」になりそうなこの映画の軌道修正をも見事にこなしている。



それにしても、この3人を見ていてつくづく思うが、日本のテレビでご活躍のゲイやオカマの方々と大差ないな。
ゲイやオカマというのは国境を越えるもんなんだろうか。
彼らが日本人だったら、「ダウンタウンDX」などの番組でカルーセル麻紀やピーターと大暴れするんだろうなあ。いいともレギュラーになったりするんだろうなあ。とりわけジョージ・マイケルにはHGの格好をして腰を振ってもらいたいものだ。


もう、いっそのこと英国人のままでいいから、3人で漫談でもやったほうがいいんではないか。「レッツゲー3匹」とか「かしまし男娘(オスムスメ)」とかいかがでしょうか。
トークショー番組「遅く起きたゲイは・・・」「めげんゲイの気持ち」でも可。