子供の中に大人は生きてるんだ(ジャックス)

コドモのコドモ」全3巻(画像をクリック)
 さそうあきら・著 アクションコミックス(双葉社




もうホームページを始めてかれこれ6年以上経つ。今でこそサイト名は「スナックwell歌夢」だが、始めた当初からの5年間のサイト名は「小学生マインド」でした。
私には長らくの間、「自分は12歳の頃と何も変わってないな」「人間って案外成長しないもんだな」という感覚があって、いつまでたってもドラゴンボールの話をし、ピッコロやベジータと結婚したいと切望する友人らに囲まれているとその感覚はなおさらだったのです。
だから、サイト名もごく自然に「小学生マインド」。
小学生を名乗ることにまったく違和感はないと思っていた。
でも哀しいかな、人間は成長しないようで成長していて、ハタチ過ぎまでは鮮明に覚えていた小学生の頃の思い出は今では薄れつつある。それでも時々、ふと
「放課後ゴミ捨て場でエルティーンを大量に拾った」
「掃除の時間は自分たちで作った『愛のゆくえ』という不倫メロドラマごっこばかりやっていた」
「机にコンパスの針で2ヶ月くらいかけて深々と『木久蔵』と彫った」
などということを思い出す。ああ、やっぱり今とあんまり変わってないような気がするな。23,4まで河原でエロ本拾っていたし。
じいさんの家が駄菓子屋で、エロ本の自販機が置いてあったから(今考えると教育上とてつもなく悪いな)縛られている女のエロ本とか沢山読んでいたし。


そんな記憶の中に、初潮さんを迎えた時の記憶ももちろんある。
全国のいろんな小学校で行われているように、私も小学校5年の時に生理のしくみの授業を受けたものだ。クラスで発育のいい女子(ウマ面)がもう初潮さんを迎えていると聞いてみんなでたまげた。公園でいつものように靴投げに明け暮れた後、ジャングルジムによじのぼって「××ちゃん生理きたってー」「実はウチもきたよー」と語り合った時に、自分もそろそろ来るのかもしれないなと思った。
実際に初潮さんがやってきたのは小6の終わり頃だった。友達から「一時間に一回ナプキン取り替えないと漏れる」と聞いていたが、そんなことは全然なかったのだった。
余談だが、非関西圏であるにも関わらず小学生女子は自分のことを「ウチ」って言うよなあ。ウにアクセントを置かない言い方だけど。ちなみに小学生男子はオにアクセントを置く「オレ」ってのが沢山いたなあ。



WEEKLEY漫画アクションが復刊した際に「社会派マンガ雑誌」を急に名乗りだしたのには、とてつもない違和感を覚えた。
じいさんの駄菓子屋にアクションは常に置いてあって、幼少の頃からアクションに慣れ親しんだ身としては、休刊にはとてつもない喪失感を感じていたので復刊したら即買いはもはや義務。ええ買いましたとも。
読んでみると駄作と佳作が混在していて、その中でも一番印象深かったのがさそうあきらの「コドモのコドモ」でありました。
ストーリーはごく簡潔。
「小学生が妊娠して出産する話」
最初の回から出産に至るまでの話だということが書かれていて、それだけだとなんだ大したことねえじゃんむしろエロ話かよ、と思ってしまうが、そこがさそうあきら、かけらもエロくないし、むしろほのぼのとしているんだが、出産に至るまでにはいろいろな問題や日常や通過儀礼などが絡みつく。
登場人物は「ココルル」などのいまどきのブランドに敏感で、天然パーマをお姉ちゃんのコテ(ああ、これは中学高校時代のなつかしアイテムだな)で直しながら「ストレートパーマかけたい」と切望するいまどきの小学生だけれど、誰でもこんな背伸びはあっただろう。いや、今でもいるなそんな女。ブランドや髪の毛にこだわってもそんなに誰も見てねーよと思うんだが。
小学生女子同士の「うちらいつまでも仲間だよねー」という、今考えれば非常にウザイ括りもあったなーこんなの、と思うことこのうえなしだ。いや、これも今でもあるか。表面上のどうでもいい話に明け暮れて、グループを外されるのを異常に恐れる女は今でも多い。特に会社にいると「××目立つからハブろ」みたいなことをやっている女が目に付くものだ。
授業中のメモの回しあいも、今はメールに代わっただけだし。
何も女子だけでなく、男子も「いつも男子は格闘技とエロの話ばっかり」と言われてたり、ゲームばかりやってたりで変化がないのは多いわな。



なんだ。やっぱり人間は成長しないじゃないか。
いや、違う。小学校高学年はその時点で成長してしまっているのだ。
とくに女は生理以前/生理以降にしか分けられないんだと改めて思う。
だから小学校高学年だろうともちろん子供は作れる。産める。
たとえセックスの知識皆無であったとしても、体はすでにそういう風にできている。



そういえば私が小学校6年の時にうちのクラスでも性に関する授業があった。比較的若い女の担任だったんだけど、セックスのことを結構赤裸々に教えていた気がするな。で、男子が「先生もそんなエロいことやってるんですかー」と質問して、「もちろんします」と答えていたのを覚えている。
その頃のうちのクラスは結構荒れていたような。この「コドモのコドモ」にも学級崩壊が出てくる。4組あったうちほかの3組は男性教師だったけどうちだけ女性教師だったのでナメていたんだった。といってもこのマンガに描かれているような学級崩壊までは至らなかったが、この「もちろんします」発言は「先生大した事ねえ」意識に拍車をかけたような気がする。今思えば結構勇気のいる発言だったのかもしれないけど。私の記憶では親からクレームが来たりはしていなかったけれど、実際はきていたのかもしれないな。まあ、その当時はそんなことは知る由もない。


小学校6年の時は、6年なりに毎日必死で生きていたからなーわりかし何も考えてなかったからなー。


その時の私には「主観」しかなかった。おそらく周囲の友達も皆そうだ。(今でも主観しかない人間も沢山いるが)
さそうあきらのこの漫画は、小学生の主観だけで構成されておらず、大まかに言うと子供の主観(視点)と大人の主観(視点)が存在している。また、前時代的な視点/革新的な視点も存在する。この様々な視点(立場)の人間の身に起こる出来事はすべてが繋がっていて、物事は単独で起こっているのではなく、常に別の物事と地続きであるのだということが実によくわかる。この視点すらも地続きで繋がっているのだ。
主人公春菜の子供は「つながっている」ことの象徴である。
漫画の中でありながら、こんなにも出産シーンに感動したことはないよ。そしてこの漫画の小学生たちは、この機会に確実に成長していてちょっぴりうらやましい。
その後あんまり成長していなかったら私らと変わらなくていいんだけども。(最終話は蛇足感を否めない)





それにしてもさそうあきらというのは、優れた語り部ですな。
漫画家の中には「絵は、物語を伝えるための伝達手段でしかない」という漫画家がおりますが、さそうあきらも間違いなくそれ。他には柳沢きみおもそうだな。アクションはそういう漫画家が多いのか。
ちなみに私は、「セックスとはちんこにまんこを入れること」というのを、小学生の時に読んだ国友やすゆきの「ジャンクボーイ」で知ったんだった。大変お恥ずかしい話である。
あ、今思えばあれもアクションか。アクションは業の深いマンガ雑誌だなあ。