生まれてこなければ、読めなかったじゃないか


アシュラ 上・下(画像をクリック)
 ジョージ秋山・著 幻冬舎文庫



ジョージ秋山の「アシュラ」がついに復刊!これぞ正真正銘のコレキタ!だ。


一番好きな漫画家は誰か、と聞かれたら一も二もなくジョージ秋山なのである。
ああ、私は本当にジョージ秋山が好きだ。大事なこととかそういうことはすべてジョージ秋山の漫画から学んだといっても過言ではない。(それにしても本当に私は漫画アクションの影響下におかれている人間なんだなあ)
ジョージ秋山の漫画に出てくる登場人物は、皆、罪深くて、どうしようもなくて、救いようがない。男も女も何かの不安に駆られていて、セックスと金のことで頭がイッパイで、衝動的な目の前の欲望にいとも容易く流され、そして驚くほど身近に死を感じている。いつだってセックスと死が表裏一体であり、快楽と哀しみ・憎しみもまた表裏一体だ。ジョージ秋山漫画に出てくる男たちは腰を振りながら肉体の一部が白骨化していたりするし、女たちは太ももや臀部を無造作に投げ出しながら、泣きながら男に抱かれている。(余談だがジョージ秋山的涙って、目ん玉が溶けている様にも見えるんだよな。あれにも死のイメージを感じさせられるよ)
人間なんてのはちんけなものだし、生きている意味なんてないし、生きている限りはセックスしなければならない哀しい生き物なんである。「人の命は地球よりも重い」だの「アナタには生きている意味があるの」だの、あるいは「愛のあるSEX」だのという言葉を簡単に吐く人間には一生わかんねえだろうなあ。世の中には簡単に消滅させられる命が山ほどあるし、意味のない人間なんて吐いて捨てるほどいるし、愛のないSEXはそこいらじゅうに溢れているというのに。
ジョージ秋山の漫画は、そういうキレイ事以外の部分に生きている人間の映し鏡だ。どうしようもないほどの絶望を繰り返し描き、希望なんてかけらも持てやしないという現実を提示をしながらも、なおもジョージ秋山は「それでも生きていくしかない」主人公を描く。絶望のどん底で這いずり回る人間を、決して殺さず、くたばらせない。どんな汚い手を使わせようと(銭ゲバ)、どんなに醜い外見になろうと(デロリンマン)、他の登場人物がどんなに死のうと(それも主に主人公の手によって殺されていく)主人公だけは死なせないのだ。いや、ジョージ秋山が死なせないのではなく、ジョージ秋山漫画の登場人物たちが絶望的状況において驚異的な生命力で生き残っているようにすら感じる。金よりもセックスよりも暴力よりも死よりも、生きることに貪欲なのである。
私は「ピンクのカーテン」が大好きなのだが、その中に出てくる主人公・悟の友人のセリフは何度読んでも胸に突き刺さる。


「俺はあがいて生きてるよ!いい女を抱きたいとか、もっと金が欲しいとか、あがいてあがいて生きてるんだよ!」


こんなにストレートに生きることに対する貪欲さを描いている作家を、私はジョージ秋山以外に知らない。



さて、今回取り上げる「アシュラ」にもまた、生きていくことに貪欲な主人公が登場する。
のっけから死体があちこちに転がり、そのほとんどが腐ってうじが湧いているという強烈な描写。嫌悪感を煽ることこの上ない。
さらに狂った女がそんな腐った死体や、生きている人間を殺してその肉を喰らうのである。
そらまー、ここだけ読めば目がチカチカするわな。PTAなんぞは有害コミックにも指定するわな。私も、漫画とはいえども、うじが湧いている描写は苦手だ。できれば読みたくないよ。
しかし決して目を背けることはできないのである。
狂った女が人肉を喰らうのは、おなかの中の子供の為なんだから。ま、それがアシュラなんだが、アシュラには生まれてくる前から絶望した世界しかない。狂った女が子供を産む為に必死で、そのためには人肉を喰らうという「生きていくことに対する貪欲ぶり」は、生まれてきたアシュラにも連鎖する。ゴミでも死体でも生きている人間でもなんでも食う。
他のジョージ秋山漫画の主人公と同じく、火に焼かれようが崖から突き落とされようが死なない。
何度も何度も繰り返される「生まれてこなければよかったのに」という呟き。
アシュラは狂った女から生まれているから、当然言葉がわからんのだが、それでも繰り返されるこの呟きを当初は本能的なものなんだろうか、と思っていた。しかし違ってた。「生まれてこなければよかったのに」は「死にたい」という意味では決してないからだ。
本能とは「生き残る」ことである。
アシュラは前述の言葉を繰り返しながら、それでも生きていく。
行けども行けども不毛の地を、この先も不毛であることをわかっていても前に進むしかないのである。
親に捨てられた(あるいは戦・飢饉で親を失った)子供たちがアシュラについて進むのはごく当然だろう。すごく逆説的だけど、生きていくことは、たとえどんな絶望のどん底にいたとしても、それだけで「なんかいいことあるかもしれねえ」という希望になるからだ。「この先にはなんかあるかもしれない、あるいは何もないかもしれない。でも行ってみるしかねえ、他にどうしていいかもわからないし」という、そんなに深くない希望が1日1日続いていくってことが大事なのかもしれない。我々はあまりにも多くを望みすぎている。

ところで、「生まれてこなければよかったのに」の後に続く言葉は記載されていないが、補うとすれば「でも生まれてきてしまったからには、しょうがない」のような気がする。
ジョージ秋山の漫画には絶望も、嫌悪すべき環境も、醜く汚れた外見、欲望を持って生まれてしまったことも、すべてを「そういうもんだからしょうがないじゃないか」と当たり前に受け止めている。その当たり前として受け止める姿はユーモラスですらあるな。ジョージ秋山漫画はそんなところがユーモラスというかギャグマンガだ。いや、どうしようもない人間がどうしようもなく悩んでどうしようもない事態に手を染めていくのも時にギャグのように見える。暴力と死とセックスと隣り合うユーモアぶりは、ジョージ秋山自体がすべてを並列したものとして考えているから、というのもあるんだろうけれど、やはりこの絵のおかげだろう。単純な線で描かれている絵なので、題材が500%絶望だとしたらこの絵のおかげで200%に軽減されているように思う。もっとも、この単純な線の絵が妙に生々しくもあるのだが。とくに女性の体。ジョージ秋山漫画の女性は皆ムチムチしていて、無防備で、エロいんだよな。
ま、「アシュラ」は少年誌連載だったので(いやーこれで少年誌連載だったとは!そりゃ要所要所にギャグ的なユーモアも散りばめるわな)エロい女性はほとんど出てきませんが。でも匂うんだよなセックスの生臭さ。いや、違う、セックスの代償としてできた生命の嘆きであり、復讐であり、決別そして自立なのだ、アシュラは。
生殖の為ではない性行為の結果。
「実はいらなかった」という解答であろうと、産み落とされた以上生きていくしかないという生命の逞しさ、親に対する憎しみと奥底にある愛情。
セックスをしたら子供が生まれるし、腹が減ったら何かを食べたくなる。そして親に捨てられたならば自分で生きていくしかない。そういう、ごくごくシンプルな出来事を、人間は道徳だとか、身分の違いだとか、いろいろな縛りで複雑化している。その全てが詰まったこの衝撃作を何故有害コミック指定なんぞにするのか。有害指定するのは「親側」と呼ばれる人間であり、世の中の絶望を食い物にして「キレイ事」に囲まれて生きていきたい人間だ。このまま永遠に復刊することはなかったかもしれない。
世の中は絶望することばかりだが、この本が復刊されたことも十分希望であるのだ。



途中に出てくる乞食法師の
「人は死ぬと極楽に行くだの地獄に行くだのというが、そんなものはでたらめだ。生きているうちが地獄じゃ」
という言葉がズシンとのしかかる。
だが、同時に乞食法師は「人を赦し、生きてゆけ」とも告げるのだ。
「アシュラ」内では乞食法師と散所太夫ってのはジョージ秋山の分身的存在である。(セリフ時に後で木枯らしが吹いているのも自分の分身が出てくる際によく見る演出。三田村惣一郎とか)
ああ、前回書いた「ロックってのはバカヤローと叫びながら抱きしめる愛だ」って言葉になぞらえると、ジョージ秋山は誰よりもロックだよなあ。本人の外見がグラサンにヨレヨレのシャツ、酒焼けした浅黒い肌、そして歌舞伎町のクラブでぐてんぐてんに泥酔→若いネーチャンとやってしまって軽い自己嫌悪という部分も含めて。トム・ウェイツみてえだ。いや、ジョージ秋山のほうが酔いどれかも。