ロサンゼルス・アドヴァイス

クラッシュ(画像をクリック)
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最初に断っておくが、私は「嫌韓流」を支持する人たちが大嫌いだ。
うちの会社内でも嫌韓流に準ずるページのURLが回っていて、「韓国人の言っていることってウソばっかなんですよ!事実を知ってください!」と説明されて読むことを薦められたことがあった。暇に任せて目を通したものの、「ええ!韓国ってこんなに最悪なの!?」なんてことにはもちろんならない。「嫌韓流」もいちおう読んだが、「韓国は事実捏造している!赦せない!」なんてことにももちろんならない。
嫌韓流にしろ、先に述べた嫌韓流web版ページにしろ、それを支持している連中のほうがよっぽど気持ち悪いし、怖い。
イデオロギー不在の国民がとってつけたように日本人としての自覚なんて言い出すほうが異常に感じます。
それも相対的な形でしか確認できないというのがそもそもお粗末であるよ。
しかもその矛先が「韓流ブーム」ってなんだよなあ。笑わせたいのか。
簡単に「我々日本人は」なんて括るなよ。あんたらと一緒にされたかないわい。
私は人類皆平等なんて思ってないし、不公平こそ普遍的にあるものだと思っている。こないだも書いたばかりだが、差別なんてのはいくらでもあるし、救いようのない事態に遭遇したことも見かけたこともある。(ないように見えてあるんだよ。男ばかりの会社だからな。そしてそれは仕方がないんだなと受け止めている自分もいる)
だから、私も誰かを差別していると宣言するならば、こういう「オレ、嫌韓流!」ってネット上のみで声高に主張している奴らに他ならない。現実の接触で差別を知らないような人たちな。実際に公の場で叫んでいる奴はいいのか、などという低次元なことを言う奴はもっと嫌だ。


そんでまた、アマゾンに載ってるレビューが酷いんだ。「何も知らない、無知であることはよくない。無知であるから騙されるのだ」ってのはわかるけども、「だからネットで情報を知るようにしよう」だの「ネットがマスコミを凌駕した、ネットのほうが正しい」ってなんだよ。おめでてーなー。結局無知から逸脱する気がねえんだよなあ。一生騙されててくれ。
そんなのは、ネット上や机上だけでのやんややんやがずっと循環されていくだけの話だ。まあ、実際に彼らの大半は一生韓国人や在日韓国人と触れ合うことなく生きていくのだろうからそれでいいんだろうけど(仮に周りに朝鮮がルーツの人がいたとしても見て見ぬふりすんだろうな。集団だったら積極的に排除しようとするんだろうけど。しかも陰険気味に。あーやだやだ)。彼らが嫌悪する反日韓国人の大半が一生日本人と触れ合わないで生きていくのと同じように。
(大体、税金も年金も払っていないような奴が「日本が韓国に金を払っているなんて!韓国赦せない!」なんて騒いでいること自体ちゃんちゃらおかしいぜ。そういう奴に限って「××は在日」だのうるせーしな。彼らのほうがよっぽど納税してるっての。おまえらも働いて納税でもしろ。まずは自分の立ち位置わかれ)




さて、前置きが長くなったが、「クラッシュ」の話をば。
これを書いている今日(3/6)はちょうどアカデミー賞が発表されたわけですが、見事作品賞受賞をした作品。
テーマはズバリ「人種差別社会」。アカデミー賞をとりそうな、いかにもな題材ではあるな。
最初、人種差別をテーマにした映画だということを知らなかったので、「僕の恋、彼の秘密」を見に行った際にこの映画の予告編を見たときの印象は「えーサンドラ・ブロックが出てる映画なのか、なんだかなー」くらいの気持ちでした。
あとサンドラ・ブロックはオカマ顔ということを思い出したか。顔面デンジャラスビューティー
人種問題を扱っている話だと知ったのはその後のことだったのだけれど、予告編からはそんな映画であるという印象をまったく受けなかったので非常に驚いたのだった。といっても、予告編はあまり覚えていなかったんだが、スクリーンに映し出される色彩が黒あるいは薄いブルーで統一されていたことだけは印象に残っていたのです。
人種差別問題といえばキング牧師、マルコムXの昔から熱い問題であったわけで、中国の反日テロにしろ今日本に蔓延る即物的ナショナリズムにしろ、赤い、燃え滾るような色彩のものを想像しがちだ。しかしこの映画は黒と薄いブルー、そして薄黒いオレンジ。非常に醒めた色彩だ。夜明けの空模様のようですらある。
その色彩イメージ通り、醒めた視線がこの映画の中には貫き通されている。
舞台はロサンゼルスなんだが、カリフォルニアの抜けるような青い空も燦燦と照らす太陽も、陽気なビーチもひとつも出てきやしない。
それどころか季節は冬だし、大体の場面が夜の話なのである。設定からして醒めているな。いや、醒めているというより冷静。冷静というよりも世界中のどこにでもある日常。ロスだって夜もあるし、冬も巡ってくる。この設定はステレオタイプなロスを否定しているだけでなく、陽気で自由で人種のるつぼなアメリカ自体も「実はそうじゃない」と否定しているようで象徴的だ。
さまざまな人種の登場人物が、それぞれの生活を営むのだが、これが見事に相容れない。お互いがお互いに偏見やら、憎しみやら、誤解やら恐怖やらというネガティブ感情を抱いており、近寄らない。
実際アメリカは居住地区がだいぶ分かれているので、相容れることはほとんどないようだ。そういえば私の友人もロスに住んでいるのだけれど、韓国人の友人と部屋をシェアしたとか言ってたような気がする。そこはたぶんアジア系の居住地区なんだろう。詳しいことはわからないが。
でも当然、まったく相容れないわけではないのである。車の衝突によって触れ合う異人種は、お互い憎しみと蔑みを剥き出しにしながらぶつかり合う。攻撃による武装を施して、ようやく互いの存在を知る。というより「(異人種は)いなくなればいいのに」という消去の対象としてのみしか確認できないんだな。
いなくなればいい、という気持ちは、端的には「すぐに銃を持ち出す」「すぐカッとなる」などの行動に反映されているが、世の中はそんなに短絡的にはできていない。それはこの映画内も然りだ。
「いなくなればいい」の反面には必ず「いてくれてよかった」「いないとどうしようもなかった」がある。あるひとつの行動がネガティブな出来事に繋がったり、驚くほどの幸運に繋がったりもする。
それは全て特別なことではない。これは奇跡の物語でもないし、幸福な寓話でもないし、過酷な現実の強調でもない。
映画全体の醒めた色彩は、イコール「どの人種にも肩入れしない/どの事実にもどの感情にも肩入れしない冷静な視点」で、過激な行動もネガティブ感情の昂ぶりも、悲観的な出来事も、いわゆる「ちょっといい話」も、絶望的な終息も、幸福な偶然も、何も解決しないどうしようもなさも、あらゆることが淡々と、人種差別がテーマの映画なのに「公平に」織り交ぜられている。世の中に公平がないゆえの、誰にでも降りかかる出来事や感情の普遍ぶり、公平ぶりってのを語るものはあまり多くない。というより誰もそんなものがあると思っちゃいない。見たくないんである。敵は感情のない、生活のない、自分を邪魔する存在でしかない、というほうが憎しみや蔑みの対象にしやすいから。自分と関係のないと思ったほうが楽だから。実際に楯突いたり楯突かれずに済むから。
自我を確認する為に敵(憎しみの対象=異人種)は必要だが、実際にはその敵に生身の人間は必要ないんであろう。自分とは違うもの、ということだけで十分だと思っている。自分は他人と違うと必死で思い込んでいる。
相手に敵対することでしか自分を確認できないという不安ぶりは、マット・ディロン扮する人種差別主義者であるロス警察巡査の

「自分のことがわかっているつもりか?実は何も分かっちゃいないのさ」

というセリフに象徴される。
相対関係でしか確認できないような脆弱な自我なんて、なんもないのと一緒だわな。なんもないとまでは言わないまでも、わかっていないということだろう。
だいたい自分が何者なのかなんて定義するのはとてつもなくちっぽけなことだよなあ。私も長らく「自分は他の誰かと違うかも」「生きている意味はなんだろう」なんてことを模索していたけど、結局メシを食ってうんこをしてを繰り返すだけだった。
毎回書いているけれど、生きていることには意味ない。死なない理由がないように。死ぬ意味がないように。
世の中の絶対的差別や、圧倒的な不公平は決してなくなることはないが、誰もが普遍的に生きていることに意味がない/死ぬ意味がないというのは、もうちょっと皆が認識してもいいと思うよ。みんな自分を大層なものだと思いすぎてるから。



ただ、私の稚拙な人生で得た真実は「あらゆることは繋がっている」ということだ。
連鎖して連鎖して、自分の知らないところまで辿り着いたり、巡って巡って自分に跳ね返ってくることもある。
意味があるのは、その人の生死ではなく、この「繋がり」のほうだ。「クラッシュ」の中でも重要なことはあらゆる場面、あらゆる思惑が繋がっていることである。何もかもが突発的に起こることではないということ。(まあ、嫌韓流だの騒いでる連中もその思想で「繋がっていること」だけが重要なんだろうなとわかるんだがね。本当は嫌韓流なんて思想は必要ないのである、他のものでも構いやしないのだ)
「クラッシュ」はこの「繋がっている」対象を思想や人種ではなく、時間とロサンゼルスという場所に焦点を置いたのが正しかった。本人たちに自覚がないが、共有空間にいる限り彼ら繋がるのは、ごく自然なことなのである。クラッシュが大げさな映画ではないのは、そんな自然で冷静な視線の賜物だろう。
だけど醒めたままではなく、ひとつの灯りを胸の中に残す映画なのである。
現実を、低温やけどのようにじわじわと実感させていく。
「ふーんアメリカは人種差別が大変だな」だとか「銃社会イクナイ」だとかの短絡的で結局関係ねーよというような感想を抱く人が多そうなのが心配だ。韓国人、中国人、フィリピン人、イラン人、その他沢山のアジア系、ブラジル人を代表とした南米人(以前群馬のとある町に行った時、驚くほどラテン系住民が多かった。町全体がにぎやかであるし)に加えて白人に黒人など日本人以外の人種も沢山住むこの日本という国もそんなに違わないから。
いや、どの国だってどの場所だって変わりはしないのだ。もうとっくに世界中どこだってアメリカなんだから。




と、重いことを散々書きましたが
この映画の見所はそれだけに限らず、それぞれの人種の美しさがふんだんであることでもあります。
特に女優陣は美人揃い。

・サンディ・ニュートン(アフリカ系とイギリス系のハーフ)
・ジェニファー・エスポジト(ラテン系)
バハー・スーメクペルシャ系)
・ノナ・ゲイ(アフリカ系、というかマーヴィン・ゲイの娘)


正直サンドラ・ブロックが霞むほどだ。サンドラはニューハーフ顔だからなあ。
特にバハー・スーメクはこれから売れるんじゃなかろうか。目の覚めるような美人でありました。
ま、マイケル・ペニャというヒスパニックの俳優の外見がわたくしの好みドンピシャだったことがもっとも印象的なんですがね。ペニャもっと見たいよ。「ミリオンダラーベイビー」に出てたらしいが全然覚えてねえよ。ああペニャと繋がりてぇ・・・所詮私はそういう下世話な人間なんである。




※「股・戯れ言」のほうで予告した内容は、今週木曜までに更新予定。
今週だけ変則的に2度更新します。