世界はこんなにも狭くて、こんなにも無限だ

ティーヴィー(画像をクリック)

東京 ポレポレ東中野にて公開中
(その後全国順次公開予定)



さて、今回は「スティーヴィー」という映画です。
「股・戯れ言」のほうで予告していた内容とは違う内容で変則的更新ス。すんません。
予告の意味全然ねえなこりゃ。


山形国際ドキュメンタリー映画祭という普段あまり馴染みのない映画祭の最優秀賞を受賞したこの作品は、その映画祭の名前の通りドキュメンタリー。
アメリカには「ビッグ・ブラザー制度」というものがあるそうで、虐待、不登校、貧困、犯罪に走るなどのリスクを抱えた児童(リトル・ブラザー)の「兄弟のような友人」になるというボランティア活動のことらしい。らしい、ってのは私もこの映画を見て初めてその制度を知ったからなんだが。
本作の監督、スティーブ・ジェームスは1980年代の始めにスティーヴィーという少年の「ビッグブラザー」になった。
ティーヴィーは近眼で金髪の、イリノイ州の片田舎の町で暮らす少年。
そして彼は虐待を受け、母に育児放棄をされた少年だった。

そんな風に書くとまるで誰からも見捨てられたように見受けられるが、実際には見捨てられているわけではない。血は繋がらないものの祖母に育てられているし、妹もいる。そして母も義理の父も傍で暮らしているのだ。

しかしスティーヴィーの手のつけられない具合はハンパなかったようで(このあたりは映画では触れられていない)、
ビッグブラザー制度を終えた監督は「解放されてホッとした」とも言っている。
しかし監督は、途中で見放してしまったことにずっと罪悪感を抱いていて、その罪悪感から1995年、20代も半ばになったスティーヴィーに会いに行くところから映画は始まる。


10年の歳月を経て再会したスティーヴィーは金髪のかわいらしい少年から、ハゲで長髪、腹の脂肪もタップリ、体毛もモジャモジャ、入れ墨アリ、そしてハーレーダビッドソンの帽子を絶対に脱がない大人に変化していた。無論清潔感ゼロ。
変わっていないのは近眼のためにかけていた分厚いメガネのみ。
この外見の変化にとまどっていてはいけない。
生活も同じだ。
この10年間の間にスティーヴィーは虐待を受け続け、施設に入れられ、入れられた施設の中でレイプをされ、
そして20歳の時、子連れの女性と結婚をし、その女性に暴力をふるって、離婚していた。
窃盗や空き巣、カード詐欺などの犯罪を何度も繰り返し、何度も逮捕をされているという具合。
酒に溺れて、マリファナも吸っている。
そして「黒人なんて人間じゃねえ」と切り捨てる人種差別主義者でもある。
口を開けば出る言葉は「俺を虐待した母親をぶっ殺してやりてえ」だ。

彼をとりまく環境にも閉口させられる。
住まいはトレイラーハウスで、
妹も母親も、祖母も、母の妹(つまり叔母)も、すべてが体重100キロ以上のデブで
マクドナルドのコーラはLサイズが当たり前)、
友人はヒゲに筋肉隆々、入れ墨バリバリ、そして仕事がない荒くれ者で、
当然スティーヴィーも働いていない。
婚約者はいるが、彼女は障害者である。(彼女もまた、トレイラーハウス住まいである)


ティーヴィーは典型的なプアーホワイト/ホワイトトラッシュなのだ。


ティーヴィーたちの暮らす南イリノイ州の田舎町は、緑がどこまで続くんだろうというくらい広大な町だ。
家は転々としか立っていないし、住人も皆白人。そして、皆顔見知りである。
彼らの世界はこの町だけで、この町から出ることなんて考えたこともない。
この広い広い田舎町だけが地球のどこからも独立しているかのようだ。
そういえば以前、「ケン・パーク」という映画を見た際に登場人物の一人が「他の町に行くなんて考えたこともない」ということを口走っていたのだけど、ここで暮らす人々もおそらく同じだ。ここの外に世界があることなんか全然知らないし、あったとしても関係がないと思っている。
そして、実際に関係がない。
観光地でもなんでもないこの町に他所からやってくる人はいない。
田舎の緑だけでなく、社会階層の奥深くに埋もれたこの町の存在を知っているのは、ここに住んでいる人たちだけのような感覚にすら陥る。
この町で起こることはこの町だけにしか知られないし、何が起こっても人々はこの町を離れない。
だって、彼らにとっての世界はこの町だけだから。


監督はこの町に足を踏み入れた。それだけで彼は、彼らの世界の一部になったのだ。


その後、2年間ほど時間を経て(他の映画制作のためにやむを得なかったようだ)、監督は再びこの町を訪れることになる。
再会したスティーヴィーは、性犯罪者となっていた。
しかも被害者は彼のいとこ。8歳の少女だ。
ティーヴィーは彼を溺愛する祖母によって拘置所から出所し、「俺は無実だ」と監督に向かって言うが、身内も監督も皆、彼がやったことを確信している。フィアンセの女性までも。
彼の犯罪をめぐって、身内の人間から出る言葉はどれも衝撃的だ。
「私も兄に同じことをされたことがあるわ」と表情を変えずに吐露する妹。
叔母(姪の母)は姉(スティーヴィーの母)にどうしてくれるのよ!と詰め寄り、友人は「俺にだって今度娘が生まれるんだ。俺の娘に手を出したら許さねぇよ」と吐き捨てる。


性犯罪は決して許されるものではない。ましてや、それが子供に対するものならばなおさらだ。
いくらスティーヴィーが虐待にあっていたって、レイプをされた経験があったって、そんなものは連鎖してはならないのである。
監督は彼を非難することはないが、「カウンセリングを受けてみてはどうか」と薦める。
そんな監督のアドヴァイスをスティーヴィーは「いやだ」と拒否する。
しかし監督は、拒否されても、スティーヴィーの傍を離れないのである。彼が間違った判断を下しても、釣りをしていても、友人らに攻められようとも。いつまでも、いつまでも。


最初に書いた環境や、スティーヴィーの起こした犯罪や彼の態度だけを読むと、本当に救いようのないどうしようもねえ世界、どうしようもねえ奴と簡単に烙印を押してしまうかもしれない。
「ホワイトトラッシュだからしょうがない」の一言で片付けられてしまうかもしれない。
ましてやこの日本においては、「アメリカは大変だ、うちは関係ないけど」なんて切り捨ててしまうこともあるだろう。


もう何度も何度も書いているけれど、
関係ないことじゃねえよ


日本にもスティーヴィーと同じような状況の階層がある。
私はスティーヴィーと同じような閉塞的な世界に住んでいる人たちを知っている。
それもとても身近なところに、だ。
私が単に治安の悪いところに身を置いているからではない。
私はそこに身を置くある人物とずっと離れることがない。だから私はずっと、そういう環境や、その人の周りで起こる出来事、そしてその人自身に降りかかった災難を他人事だとか関係ないだとか思えなかった。そこから抜け出して欲しくて、その人と会うのはやめなかった。「あいつはダメだ」なんて烙印を押す連中には本当にうんざりした。
私がその人にしてあげたことは、今思えば何もない。多少のアドバイスは言ったけれど、結局は話を聞いただけだ。
でもその人は抜け出した。その人は自分の力で今に至ったのだ。
その人の世界は、今も昔も、おそらくこの先もその人の住む町しかない。
信じられないかもしれないが、東京に程近い町に住んでいるにも関わらず、その人は「東京に出る」という言い方をするのだ。
私はその人に会いに、その人の町に行く。その町を訪れるのをやめることは、考えられない。たぶん死ぬまで付き合っていくことだろう。


だから、いくらスティーヴィーが拒否しようとこの監督がスティーヴィーの傍に居続けた気持ちは、とてもよくわかるのである。
他の人を変えることなんでできないのだ。
自分を変えられるのは自分しかいない。
他の人の前では自分なんて無力なんである。
自分にできることは、その彼あるいは彼女を拒否せずに見守ることだけだ。変わるのをずっと待っていてあげることだけだ。
監督は実に10年間、スティーヴィーを撮り続けた。
ティーヴィーは頑固にすべてを拒否することもあったが、自分の力で自分を変えようという方向に動き出す。彼の世界の全てであるイリノイ州の田舎町からも出る。憎み続けた母とも和解をするし、彼の人生は少しづついい方向に向かうと思われた。
しかしフィクションではない生身の人間であるスティーヴィーは、皆が「善い」とする方向には簡単には向かっていかない。
でも、何があっても、自分の意にそぐわなくても、見守るしかないのだ。受け入れるとはそういうことである。
関係ないよ、と切り捨てるなんてもってのほかだ。


関係ない、どうだっていい、というのは他人と向き合えない、そして自分とも向き合えない弱い人間の吐く言葉だと真剣に思う。
ティーヴィーはどうだっていいだろ、関係ないだろ、という態度を取り続けるから、なおさらだ。


でもスティーヴィーの周りには、幸運なことに弱い人間はあまりいないのだ。
いるとしても、それは母親のみ。
妹はスティーヴィーほど酷い虐待は受けていないにしろ、同じ環境でずっと育ち、兄に性的いたずらをされた経験もありながら
結婚してスティーヴィーの面倒すらも見ている。本人も子宮内膜症という病を持ちながら(これは本当に辛い病だ)子供を持つという希望を捨てていない。
叔母は、姉であるスティーヴィーの母の「親に口出しをしたら叩くのは当たり前。私はそうされてきた」という言葉に対し、
「私はそんなことは自分はしないって決めたの。こんな思いをするのは私だけで終わりにしたわ」ときっぱりと言う。
また、自分の娘を酷い目に合わせた甥に対して、本当は憎んでもいい立場にありながら
「スティーヴィーのことは憎いんじゃない。憐れんでいるわ。これを機会に立ち直って欲しい」
と願うのである。
そして誰よりも強いなあ、と思ったのはスティーヴィーの婚約者の親友であるパトリシア(重度の障害者)
「黒人がうじゃうじゃいやがる。あいつらは人間じゃねえよ」ということを無責任に言うスティーヴィーに対して
「(シカゴで)もし倒れて、隣に黒人しかいなかったらどうするの?そんなことは言うべきではないわ」とはっきり言うし、
婚約者と結婚して子供が生まれても親に見せない、といえばそれは違うわ、と意見する。
彼女が障害者となったきっかけは、義理の父によるレイプが関係しているらしく、「私は結婚はできないわ」「どうしてもあの時のことを思い出してしまう」と告白しながらも、スティーヴィーを決して拒否しない姿には本当に胸を打たれた。


彼女たちには世界がここしかないから、他に逃げるところがない。
でもだからといって絶望はしないし、自暴自棄にもならない。目の前のものを受け入れて、前進していく。
だってここで生きていくしかないから。
彼女たちは世界ととことん向き合っている。女に限らず男も強い。
そんな彼らがスティーヴィーを見捨てないことが、何よりも素晴らしい。
「赦す」とは、彼らや、この映画を撮り続けた監督が行っている行為なんじゃないかと思った。
彼らの世界であるこの町は、どこまでも閉じているようで、やはりどこまでも無限だ。
どの世界にも希望があるように、この町にも、この町が世界の全てである彼らにも希望があるのだ。それはもちろん、スティーヴィーにも。
「明日というのが一番近い希望」という言葉が眩しい。






ああ、書きたいことが多すぎて、でも書ききれなくて気がつけば長文になってしまったが、とにかく見て欲しい。
頼むから見てください。本当に心から願うよ。
そして、より多くの場所で上映されることも願う。
私がどんなに長く書いても、カメラに映し出された真実には叶わないから。
だいぶネタバレなことを書いたが、この映画にはネタバレなんて微塵も意味がないから。
ティーヴィーが元フェイス・ノー・モアのジム・マーティン、あるいは元ペイブメントのギャビーおやじに似ているとどんなに言っても、見てみないとしょうがないからなー。