サン・ラーたずねて宇宙三千里

サン・ラー ジョイフル・ノイズ(画像をクリック)

東京 アップリンクファクトリーにて毎週月火レイトショー公開中
DVD 3/24発売



あー私はサン・ラーになりてぇ!


のっけからそんなことを言われても何がなんだかさっぱりわからない方もいると思われるので、今回のお題「サン・ラー ジョイフルノイズ」という映画の感想を述べる前に、まずはサン・ラーを説明しなければ。


サン・ラーは1914年生まれの黒人ジャズピアノ/オルガンプレイヤーであります。
ジャズ好きならば誰もが知っているような偉人。セロニアス・モンクとも並ぶ有名人だ。
40年代からキャリアをスタートさせ、彼の率いるオーケストラとともにさまざまなスタイルを混合させたライブで観客を熱狂させてきた。残念なことに93年にこの地球上から去っています。


専門的な用語(大した専門用語ではないが)でいうとスウィングとバップにアヴァンギャルドな要素を加えた、常識を覆すような実験的作品を演奏し、50年代後半の整然としてデリケートな作品群は、60年代になると突然無秩序となり、がなりたてるようなオルガンとシンセサイザー、西アフリカのリズム、室内楽の方法論、フリーキーなソロ・プレイ、ビッグ・バンドのダイナミック性、スウィングするメロディ、そしてこの世のものとは思えないジューン・タイソンの歌声など、本質的に異なる音楽要素を全て取り込むことで、それは急速的にエスカレートしていった。ときには、バンドのメンバー達がマイクを取り、アフリカ回帰や宇宙についての説教を行うこともある。
以上listen.jpよりの引用。


しかし。上記のようなことはほとんどどうでもよい。何がなんだかわかんねえ、でいい。


サン・ラーの外見を見ていただきたい。

もう、ホントにこの外見だけで十分だ。
自らを土星から来た使者と名乗り、宇宙と古代エジプトについて熱く語り、上記のような格好のほかに好んで古代エジプトの格好をする(主にヘンなズラ)とにかく派手な黒人おじさんなのだ。
「音楽は宇宙の共通語」と語るサン・ラー(ちなみに「ラー」というのは太陽神という意味)は、つまり、音楽を通して宇宙思想を啓蒙していたということである。
いやーサン・ラーが天才オルガンプレイヤーで本当によかった。
一歩間違えればカルト宗教家、あるいは単なる「ムー」読者だもんな。あ、吉村作治てのもあるか。


本編はそんなサン・ラーが地球上で熱心に啓蒙活動を繰り広げていた頃のドキュメンタリーである。
ドキュメンタリーというよりもサン・ラー発言集。サン・ラーをアイドルとするならば、イメージビデオと言ったほうがいいかもな。
しかし、小難しいジャズ専門用語を得意げに並べるようなジャズファンだけが見て語る映画にしてしまうのは勿体無いような代物なんである。


冒頭からどっか(おそらくフィラデルフィア)の屋上にキンキンピカピカの格好をしたミュージシャンたちが集い、宇宙とサン・ラーを称えた歌と演奏を繰り広げる。そこに悠然と現われるサン・ラー。無論キンキンピカピカである。腹出てるけど。
混沌と狂乱のような怒涛の演奏の場に現われるサン・ラーは、演奏者の彼ら(サン・ラー・アーケストラの面々)の神さながらだ。ひとすじの希望のようだ。
そしてこの屋上のシーンでもそうだが、どっかの古代エジプト博物館でサン・ラーは
「宇宙は果てしない。地球はダメだ。この星には思想がない」
「私が今語っていることは古代思想家が語ってきたことと同じだ。私の言っている事は正しい」
「私は歴史(ヒステリー)の一部ではない。私は謎(ミステリー)の一部なんだ」
「地球にはホワイトハウスはあるが、ブラックハウスはない。対立するものがないこの国の秩序は間違っている」
「私はスピリチュアルな存在である。私は触媒だ」
などというようなことをゆらゆらと語っていくのである。


発言だけを追っていくとただの電波おじさんだ。
しかし、電波ではないのかもしれない、と思ってしまうような圧倒的な存在感。何が根拠なのかさっぱりわからないが、サン・ラーにみなぎる自信を目の前にしてしまうと、そうなのかもしれない、と思ってしまうから不思議だ。いや、洗脳されてるわけではないけれど。サン・ラーの人間的魅力が圧倒的なのだ。他には決してない唯一無二なのだ。


事実、彼の率いるアーケストラの人たちは彼に魅了され、彼の思想に心酔し、彼とともに暮らしていたりする。
中には宇宙思想を啓蒙する為に食料品店を始めてしまう人もいるし。(ダニー・トンプソンという人。かっこいいんだこれが)
「今の子供たちは正しい方向に導いてくれる大人がいないから、宇宙思想を教えたいんだ」
なんつって黒人の子供相手に賑やかに商売をしていたけれど、子供たちには
「ちょっと宇宙にかぶれてるけどいい奴さ」
と言われる始末。
でも、それでいいんだと思う。ほほえましい。
確かにサン・ラーとともに暮らす面々は、宇宙にかぶれている。でも、それ以上に音楽にかぶれ、そしてサン・ラーにかぶれているのである。サン・ラーのことが心底好きなのだ。彼に傍で彼の見るもの聴くもの、彼の考えることを共有したいのだ。
そして彼の向かうところに一緒について行きたいんだ、というのがスクリーンからひしひしと伝わってくる。


だって、サン・ラーは人だとか国だとか人種だとか民族だとか、そして地球だとか、そんなちっぽけな単位で物事を見ていないから。
「我々は星から星に移動する」
この言葉は本当に本当に素晴らしいなあ。
口にするだけで頼もしい気分になれる。


このフィルムが作られたのは70年代末である。
ちっぽけな単位で物事を見ていないサン・ラーではあるが、要所要所に黒人としてのアイデンティティを覗かせる言葉が登場する。
「KKKは『黒人が西洋文明に貢献した割合は、馬と一緒だ』と言った」と彼は語る。
でも、それと同時に
「人間なんてのはちっぽけなものさ。心に正直になれば、誰もが無力で弱い存在だと気づくんだ」
「でもそれは死ぬ時にしかわからないんだ」
ということを言うのである。
サン・ラーを慕い、サン・ラーはいい奴さ、と語る黒人たちの精神的支柱だろうよそりゃ。スピリチュアルな存在であろうよ。
彼は、人間は無力な存在であろうとも、それでも生きることを賞賛するのだから。この星を目一杯生きたら、一緒に次の星に行こうと導いてくれるんだから。
そのようなことを言葉でも彼は語るが、何よりも音楽で語るである。
音楽は溢れ出るものであり、衝動であり、エネルギーであり、生きることだ。
そして、音楽は希望なのだ。
言葉にしてしまうと陳腐だが、スクリーンを通して、スピーカーを通してサン・ラーが発信する音楽を是非受け止めていただきたい。
そしてこの星を十分生きたら、サン・ラーが行った星に移動しよう。


実は、私は3年ほど前にフジロックでサン・ラー・アーケストラを見る機会に恵まれておりまして、
といってもその当時はサン・ラーのことは全然知らなかったのでした。
トイレ待ちの行列から見ていたら、キンキンピカピカの衣装を着たおじいさんたちがサックスやらトランペットやらを吹きながらステージ前に飛び出してでんぐり返しなどをしながらエネルギッシュに演奏する姿を見て、こうしちゃおられんとトイレの行列から飛び出したほどだ。おしっこを我慢してまでも見なきゃならないと思ったのだ。
サン・ラーはすでに地球を去った後だったのでいなかったが、それでもアーケストラの演奏はすごかった。十分触発された。
サン・ラーはいなかったけど、いたのだ。
やはりサン・ラーはスピリチュアルな存在なのである。



あ、じゃあ、サン・ラーにはなれねえな。
では、サン・ラーの移動する星から星を追いかけて旅して、つらつらと文章を書く「宇宙版紀貫之」になろうかな。


※すんません。今週も変則更新予定です。次は金曜日になります。