一生ヒットゥイヒットゥイする為に


「ナミイと唄えば」(画像をクリック)
 東京 ポレポレ東中野で公開中
 その後全国順次公開予定

「ナミイ! 八重山のおばあの歌物語」 
 姜信子・著 岩波書店・刊



去年の3月に出張で沖縄を訪れて以来、3ヶ月にいっぺんは沖縄に行っている。
それまで南の島にはまったく縁もなかったし、ぼんやりと「私は生涯沖縄に行くことはないんだろう」などと思っていた。そう思う根拠は一体なんだったのか、今となっては思い出せもしない。いやあ、人生ってのはどうなるのかわからんもんだね!
沖縄で知り合った人々は今や大事な友人だ。先日も沖縄で知り合った友人と会っていて、その友人と会うたびに話すんだが、ずっと昔から知っていたような、出会うべくして出会ったような、そんな運命的なものを感じるのである。その友人とは、大阪で、横浜で、そして東京で会っているんだけど、こんなに土地を転々としながらも会うなんて何かの引き合わせのようにしか思えない。


先日見た「ナミイと唄えば」という映画がある。
石垣島生まれの85歳の新城浪さん、通称ナミィおばあのドキュメンタリーだ。
ナミイおばあは9歳の時にたったの250円で那覇の料亭に売られ、芸者として三線を厳しく教え込まれた。
時代は戦前、昭和の恐慌時代。沖縄本島で芸者として働いていたナミイはおじさんの手によって買い戻され、石垣島に戻るものの、すぐに父の出稼ぎ先であるサイパンに渡る。(当時サイパンは日本領で、大規模なさとうきび畑で働くために沖縄から出稼ぎ労働者が大勢きていた)サイパンから再び石垣島に戻るが、戦争が悪化してくると台湾に渡り(当時の台湾も日本領。八重山の島々よりも台湾のほうがれっきとした日本だったのだ!)そこで終戦を迎え、再び石垣島へ。引き上げてきた家族を食べさせる為に、金遣いの荒いダンナと子供を育てる為に、三線一本を片手に与那国島石垣島沖縄本島の料亭で働き続けた。文字通り激動の人生である。
日本という国の、20世紀の様々な姿に流され、流れて島々を転々とした八重山のおばあ。琉球人は戦争中、「二等国民」と呼ばれ、いろいろな苦労を強いられた。(島だけを転々としてきた、という点が象徴的である)ナミイもまた、嫌な目に遭ったこともあることだろう。
しかしこの映画には過去の苦労を語るナミィの姿はない。いや、語ってはいるんだが、ほとんどは今のナミイおばあが三線弾いて高らかに唄って、そして楽しそうに踊る姿ばかり。
小さな体で唄ったり踊ったりするナミイおばあは、大層かわいい。シワシワの顔に咲く笑顔もかわいくてたまらない。
そして過去よりも遥かに多く口にするのは
「ヒャクハタチまで生きたい」
「200歳まで生きたい」
という未来への希望なのである。まだまだ死にたくない、とは言うけれど、「生きたい!」というニュアンスのほうが遥かに強い。
それも、「いろんなものを失いたくない」という意味での生きたい、ではなく、今のように毎日うんと遊んで(石垣の言葉で「ヒットゥイヒットゥイ」というらしい)、孫が大きくなる姿まで見たいという好奇心の強さからくる「もっと生きたい!」なのが清清しい。
生きることに貪欲なのである。


ナミイおばあは有名な民謡歌手でもなんでもないので、東京や台湾に行って唄ったりもするが、大抵の唄う場所は石垣島の海岸だったり、民謡酒場だったり、スナックだったり、家だったり、デイサービスセンターだったりで、すなわち普通の生活の場所である。おばあにとっては唄うことは普通の生活なのだ。
しかし「おばあの普通の生活」と侮ることなかれ。
いつでもどこでも三線弾いて、唄って踊る姿は一緒に居る人を喜ばせ、そしてナミイおばあ自身も楽しくてたまらない姿は、どんな人よりも、どんな有名人よりも輝いている。まぶしいくらいだ。
途中、何度も浪曲玉川美穂子さんが
「唄うことは生きること。生きることは唄うこと。唄は命!」
と口上を述べるのだけど、ナミイおばあにとっては本当にそうなのだ。おばあの人生は、唄とともにあった。そして、今も唄とともにある。そしてこの先、ヒャクハタチまでも唄とともにあるのだろう。
唄うことは希望であり、生きていくことに他ならないのである。
生きることは唄うことだから、唄う事にもいつまでも貪欲なのだ。


唄って踊って目一杯遊んだ後のおばあの言葉が印象深い。


「バカみたいだけどよ、こんなにかして生きてかれるんだよ。こんなにかしないと生きられない。
 知らない人はこれはバカなおばあだなと思うかもしれないけど、
 生きるためには、バカにもパーにもならないと生きられない」


もうね、これ、聴いた途端に涙ダラダラでしたよ。
本の「ナミイ!」のほうにも載っているのですが、それを読んだ際にも泣けてしまった程。


過去のこの日記でも何度も書いているけれど、この、「生きること」に相当する何かを持っている人に私は強烈な羨望を抱くのである。
何があっても失いたくない何か。これだけは譲れないという何か。
ナミイおばあにとってはそれは唄だ。前回取り上げた「送還日記」の非転向長期囚の先生たちにとっては思想であった。サン・ラーにとっては宇宙と音楽だったことだろう。
それがある故に生きていかれるんである。それ故に困難を選ぶことにもなっただろうし、それナシだったらもっとスマートな、簡単な生き方があったかもしれない。でも、それを持って生きていくんだよなーバカとかパーとか思われても、どうしても手放せないんだよなー。
自分はそれを持っているのか。
自分ではまだ分からない。
わからなくて当然だ。悔しいけれど、私はまだ若造だからな。おばあや先生たちの年端にもいかないんだから。
私は昔から自分が無知なのが恥ずかしかった。何も知らない/何も経験していないのが悔しかった。いろんなことを知って、いろんなことを経験したいのだよ。今も何かを持っているとハッキリ言えないのが歯がゆくてたまらないんだよ。「若さを売りにしている」なんて言われた時は心底腹が立ったものである。遅く生まれて悪かったな。好きで若いんじゃないやい。こっちもそれがイヤでたまんねえんだ。
ああ、早く歳を取りたい。いろんなことを知りたい。
早くおばあのところまで追いつきたいな。
そのために、今は、自分のできることをやるまでである。
行けるところに沢山行くまでである。
行って、行って、辿り着いたそこで、いろんな人と出会っていくことだ。
今はまだわからないけれど、私がいろんな縁やいろんな経緯で沖縄に辿り着いて、冒頭に述べたような友人と出会ったのも、そういうことなんだろう。
冒頭で「沖縄はこの先縁がないんだろうと思っていた」と言ったが、そんなに縁がないわけでもなかった。私の人生の先輩である某女史は、まさにほかでもない沖縄の出身(しかも石垣島)だったのでした。それもまた縁の一端だったんだろう、と今は思う。
そういう偶然のような、必然のような縁のことを考えると
ナミイおばあが、作家の姜信子さんに対して言う


「こうして出会えたのは偶然ではないよ
ウティングトゥ カミングトゥ(天の引き合わせ、神の引き合わせ)」


という言葉に強く同意できるのです。それは沖縄に限ったことではない。
私があらゆる場所で出会ったすべてがそうだ。
そして、誰にでも起こるすべてのことがきっとそうなのだ。
私もウティングトゥとカミングトゥに導かれていろんな人と出会い、いろんな音楽に出会い、いろんな本に出会い、いろんな映画に出会っていると信じているよ、その縁でこの映画に出会えたと信じているよ、おばあ。




次に沖縄行く時は石垣島に行こうかな
ナミイおばあと一緒にうんと遊びたいな